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お持たせ展示館

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  「奥の細道」⇒(番外)

海晴(かいせい)

 閑話休題
「奥の細道」を追っかけていると幾つか気付くことがあります。

  文字の総数は1万1千余りで、400字詰の原稿用紙だと僅か28枚にしかなりません。しかし芭蕉は、この短い紀行文を脱稿するのに数年を費やしています。 文章は練りに練り、推敲に推敲を重ねて書かれたものであることはまず間違いなく、芭蕉晩年の渾身の作品とでも云うべきものでしょう。
象潟での《象潟や 雨に西施が ねぶの花 》に象徴されるように芭蕉は非常な教養人で、漢籍にも精通していたようです。 尤も、当時のインテリー層が嗜む物としては中国からの文献が殆どであったでしょうから当然かも知れませんがね。
        
(*西施:春秋時代の越から呉王に贈られた傾城の美女。その色香に迷って呉王は越に滅ぼされた。
 芭蕉が「奥の細道」で詠んだ句の中では「最上川」の語を詠み込んだものが少なくありません。 代表的な作は
《五月雨を 集めて早し 最上川 》という句は、当初大石田の高台にある向川寺から俯瞰した川の流れを眼で見た感覚で静的に把えて「集めて涼し」としたのでしょうが、実際に本合海から乗船し流れに揺られてみて、これは動的に把えるべきことに気付き「集めて早し」に改めたものと思われます。  

俳聖と云えども、一発で完璧いうことではないのでしょう。有名な「舌頭千転」という教えも自らの実践に負うものと思われます。
内容は、かねがね憧れてきた歌枕などの地に立ったとき心に映った感慨を句に託し、若干の記述を付加しているに過ぎませんが、@500年先輩の西行法師に格別傾倒していること A「雲厳寺」の仏頂和尚や「軒の栗庵」の可伸僧のような「世捨人」的人物の生き様に大変な憧憬を抱いていた様子が覗えます。

基本的には各地の俳人依存の貧乏旅行でした。また、専門の宿屋も少ない辺地巡りであったせいもあって不潔で寝心地の悪い所に泊まらねばならなず、よく寝られないことを盛んにボヤき、これを避けるため、より人家の多い繁華な宿場を目指して疲れを厭わず頑張り、予定以上に足を伸ばしています。
非常に短気で、大変な気難し屋であったようです。訪ねた相手の応対が鄭重でないときは、すぐ去っていますし、随行者曾良との心理的軋轢を窺わすような行動も見受けられる、と一部の研究者も指摘しています。

胃腸に持病があって道中時々な難渋をしていますが150日にもわたる行脚で寝込むことはありませんでした。 

[1029]2009年02月28日 (土) 13時14分



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