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[17] 神は存在するか
catbird - 2010年02月13日 (土) 14時56分

神は存在するか。では神とは何でしょうか。その問いに答えるには、まず私とは誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳をとりだしたらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。
赤いとか熱いとか感じている存在が私です。では、赤い熱いと言う感じは、物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界(外界と呼ぶ)には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。では、音はどうでしょうか。外界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている様な音は存在しません。味はどうでしょう。同様に味もありません。臭いはどうでしょうか。臭いも外界にはありません。熱い冷たいと言う事は、在るでしょうか。物質が振動しているだけです。絶対0度では、全ての振動が止まります。温度が高くなるに従って、物質の振動が大きくなって行くだけです。熱い冷たいもありません。全て心が作り出したものです。次々に、心が作り出している感じを捨てて行きます。最後に残るのは、この範囲にあるものが存在している、そして時間が経過しここに移動したと言う、時と空間の直感だけです。
しかし、貴方が感じている時空間も、決して心の外にある時空間を、直接感じている訳ではありません。心が作り出した時空間を、感じているのです。心が作り出したものを取り去ると、何も残りません。仏教では色即是空と言います。心が作り出したものは、現れたり消えたりします。従って、是と言った実態はありません。つまり、有でも無でも無く空なのです。耳から聞こえる音も、鼻から匂う匂いも、舌の味も、肌から受ける触感も5感は全て空です。5感=色、概念=受、感情=想、意思=行、認識=識からなる心の働き全ては、現れたり消えたりし、定まった実態はありません。五蘊皆空です。ですから、赤い熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して、全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。
この世の中には、物質でないものも存在しています。もし物質だけであったら、どうでしょう。ロボットは物質だけで出来ています。科学が発達し高性能なロボットが出来たら、人間と同じ反応をするでしょう。世間話をして冗談を言うでしょう。やかんに触れると熱いと言うでしょう。しかし、私たちが感じている熱さを、感じている訳ではありません。何かを感じていると言う事は、人間は物質だけから出来ているのでは無いことを証明しています。
心の外の世界がどうなっているか、私には全く知る術がありません。しかし、心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。
花を見たとします。眼が光の刺激を受けて、神経の中を信号が流れ、脳に到達します。脳がその信号を受けて、脳の中の物質の一部が花に対応する動きをします。私は、その花に対応する物質の動きを感じて、花を感じるのです。それは丁度、カメラが光の刺激を受けて、ケーブル及び電波で信号が流れ、テレビに到達し、その信号をテレビが受けて絵や音を作りだし、それを私が見ているのと同じです。
テレビを見ているのが私です。決して、テレビが私なのではありません。では、脳と言う物質が私なのでしょうか。花を感じているのが、私なのです。脳と言う物質そのものが、花を感じているのでしょうか。もしそうなら、そこらに転がっている石も何かを感じているはすです。本当に、陽子と中性子の周りを電子が回っている存在が、何かを感じているのでしょうか。赤いとか熱いとか言う感覚は、決して物質ではなく、精神的な存在です。その様な精神的なものを感じている私は、物質ではなく精神的な存在なのです。決して、石や木が何かを感じている訳ではないのです。赤い熱いと言う感じは、私の一部です。私は、精神的な感じの集まりなのです。
テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。もし、見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。
同様に、もし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。科学が発達し、かつて脳を構成していた、物質を掻き集めて、元の通りに組み合わせて、脳を作ったら、また、私は元の通り感じるようになるでしょう。
仏教ではこの事を、不生不滅・不垢不浄・不増不減と言っています。私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。穢れるものでも、清くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。
死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。私自身は、死んだ後も何ら変わらずに存在しています。ただ、信号を送る脳が無くなったので、何も感じていないだけです。そして、新しい脳が信号を送り出したとき、私は又前と同じ様に感じるでしょう。ただし、人間の脳とは限りません。
心の中に作り出された世界は、私の一部です。心の中の世界に居る一人の私が、私なのではありません。その1人は、宗教上小さい私とかアートマンとか呼ばれています。心の中の世界に居る私の敵も、私の一部です。ですから、キリストは汝の敵を愛せよと言えたのです。
人間の脳より遥かに高性能な脳が私に刺激を送る様になれば、もっと豊かな世界が心の中に広がるでしょう。そう言う意味で、現在私が感じている世界は、私のほんの一部にしか過ぎないのです。私に限界はありません。脳と言う物質がどんどん進化して全知全能な物質になり、私に信号を与え出したら、私は全知全能になるはずです。本来の私は、全ての感じの集まりなのです。全てなのですから、これ以上の精神的な存在はありません。この私を大きい私とかブラフマンとかと呼ばれています。
宗教の目的は、小さい私の誤解を解いて、大きい私を自覚することにあります。それが、悟りです。仏に成るのではない貴方が仏なのだと言っています。天上天下唯我独尊です。神の子です。ブラフマンです。貴方は、自分の存在を疑えますか。デカルトは、全ての事を疑って見ました。しかし、考えている自分の存在だけは疑えませんでした。これが神は存在するかの答えです。



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