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[14] カントの「神の存在の唯一可能な証明根拠」
モリタ - 2005年09月27日 (火) 16時04分

18世紀のドイツの哲学者、マギスター・イマヌエル・カントは、絶対者である神の存在を証明するための根拠について論述し、1763年に「神の存在の唯一可能な証明根拠」として著しました。

ここでは、創造目的論における3つの命題を、このカントの考察と照らし合わせてみて、3つの命題が神の存在を証明しているかどうかを検討してみたいと思います。哲学者諸氏のご意見を賜ることができますれば幸いです。(コメントはアンダーラインで表示)



第一考察 現存在一般について
一 現存在はなんらかの事物の述語でも規定でもない
 任意の主語、例えばユリウス・カエサルを取り上げてみよう。考えつく限りのカエサルの述語を時間と場所のそれをも含めて総括してみるならば、これらの規定をすべて持った主語が実在することもありうるし、実在しないこともありうることが、たちどころに理解されるだろう。
 そもそも現実には存在しない幾百万のものが、もしそれが実在するなら持ったであろう一切の述語を考慮にいれたとしても、単に可能なものであるに過ぎない。


二 現存在は事物の絶対的定立であり、この点で、その他の述語がすべてそれ自体としては他の事物に相対的に定立されるのとは異なる
 神は全能であるという場合、述語は主語の徴表であるから、このような神と全能との間の論理的な関係が考えられているのに過ぎない。ここではそれ以上のことはなんら措定されていない。神が存在するのか、つまり絶対的に措定され現実に存在しているのかは、ここにはまったく含まれていない。


三 現存在のうちには純粋な可能性のうちより以上のものが存していると私はいうことができるか
 三角形があるならば、三つの辺、一つの囲まれた空間、三つの角などがある。あるいはより適切にいえば、これらの規定が三角形というものに対して持つ関係だけが単に措定されるにすぎないが、いったん三角形が存在するや、これはすべて絶対的に、つまりこれらの関係ごと事物そのものもまた措定されるのであり、したがってより多くが措定されるのである。
 実在するものによっては可能なものによって以上のものが措定されている、なぜならば、これは事物そのものの絶対的な定立にもまたかかわるからである。


「いくら形容詞を並べても、存在を証明することはできない。」



第二考察 現存在を前提としている限りでの内的可能性について
一 可能性の概念における必要な区別
 自己矛盾的であるものはすべて内的に不可能である。
 四角な三角形とは絶対的に不可能なものである。しかし、直角を持つ三角形はそれ自体として可能なものである。

二 どんなものの内的可能性もなんらかの現存在を前提としている
 可能性というものは、内的な矛盾が不可能性の論理面として存在する場合だけでなく、可能性の実質面ないし思考さるべき条件が存在しない場合にも、消滅する。なぜならば、その場合はそもそも思考さるべきものが存在しないが、どんな可能性も思考可能なものであり、それには矛盾律を遵守した論理的関係が帰属するからである。
 何も存在していない場合には思考可能であるものもまた存在していないのであり、にもかかわらず何かが可能であるということには自己矛盾がある。

三 なにものも存在しないことは絶対的に不可能である
 あらゆる可能性がおしなべて廃棄されるようなものは絶対的に不可能である。

四 すべての可能性はなんらかの現実的なもののうちに、それの内なる規定としてか、または、それによる帰結として与えられている
 他の内的可能性が根拠としてのそれによって与えられるような現実的存在をこの絶対的可能性の第一実在根拠と名づける。矛盾律はそれとの合致において可能性の形式面が成り立つゆえに絶対的可能性の第一論理根拠である。現実的存在は思考可能なものにおいて条件と実質面を与える。
 述語と主語が矛盾律にのっとって合致するということは、それらの概念そのもののうちに基礎があるのである。
 読者は物において与えられている思考可能なるものに立脚し、この論理的規則にのっとって結合関係だけを考察する。しかし読者がついには、そもそもいかにしてこれらが与えられるのかを考えるならば、一つの現存在以外のものを引き合いに出すことは出来ないのである。


「すべての存在にあてはまる内的可能性があるならば、それは第一実在根拠としての神からの帰結である。『いかなるものも相対的関係を通してしか存在できない』という命題は、カントの言っている内的可能性に当てはまり、それゆえ、第一論理根拠としての神の存在が実証され、相対的関係は神の実質面を与えている。」



第三考察 絶対的に必然的な現存在について

一 絶対に必然的な現存在の概念一般について
 あるものが絶対的に必然的でありうるのは、それの非存在が一切の思考可能なものに対する条件をも否定することになる場合である。

二 絶対的に必然的な存在が存在する
 可能性はすべて、そこにまたそれによってあらゆる思考可能なものが与えられる現実的存在を前提としている。したがって、もしそれを廃棄するならばすべての内的可能性が総じて廃棄されてしまうであろうような、ある一定の現実性が存在する。しかるに、それを廃棄したり否定したりするとあらゆる可能性が絶滅するようなものは絶対的に必然的なのである。したがって、なにものかが絶対的に必然的な仕方で存在する。ここまでに明らかとなったのは、一つまたは複数の物の現存在そのものが一切の可能性のベースにはあるのであり、この現存在それ自身は必然的であるということである。


「相対的関係を与える現存在が存在しないとした場合には、相対的関係を持ち得るものは一切なくなる。ゆえに、相対的関係を与える神の存在は絶対的に必然である。(物理法則は相対的関係の特質を記述したものにすぎない。相対的関係がなければ物理法則もありえない。従って、物理法則は相対的関係の根拠にはなり得ない。)」



三 必然的存在は唯一である
 必然的存在は他のすべての可能性の最終的実在根拠を含んでいるのだから、他のすべてのものは根拠としての必然的存在によって与えられる限りにおいて、はじめて可能となっている。ゆえに複数のものが絶対的に必然的であることはできない。


四 必然的存在は単純である
 複数の実体から合成されたものは絶対的に必然的な存在たりえない。仮に一部分だけが絶対的に必然的であるとするならば、残りの部分はすべて帰結としてそれによって初めて可能であるということになり、対等な部分として全体に属することができない。


五 必然的存在は不変であり、永遠である
 自己自身の可能性すらも、またすべての他の可能性もこの現存在を前提しているのであるから、この現存在がほかの仕方で実在することは不可能である。すなわち、必然的存在はさまざまな仕方で存在することはできない。その非存在は絶対的に不可能なのであり、したがって、必然的存在が生み出されたり消滅したりすることも不可能であって、それゆえ永遠的なのである。


六 必然的存在は最高度の実在性を含む
 どのような実在性もなんらかの仕方で必然的存在のうちに含まれていることは明らかである。
 他のあらゆる可能性がそれによってはじめて可能なのだから、この必然的存在は一切の可能なるもののなかでも最高の実在性を持つものであるからといっても、これを一切の可能な実在性がその規定として属するというように理解してはならない。すべての実在性は神ないし必然的存在に述語として等しく帰属させられるが、その際、それら諸述語が唯一の主語に属する諸規定としては決して並存することができない。物体の不可透入性、延長その他は知性と意志を持つ存在の性質ではありえない。実在的反対は論理的反対、つまり矛盾とはまったく別のものである。最高の実在性を持つ存在=神においては、実在的反対や積極的対立はその固有の規定であることはできない。
 否定そのものはなにものかでも、思考可能なものでもない。否定だけを仮定するならば、その場合なにも存在しておらず、また思考さるべきなにものもない。だから否定とはそれと対立する措定によってのみ考えられうるのである。

「必然的存在である神は、唯一であり、単純であり、永遠不変であり、最高の実在性を持つ。」



第四考察 神の現存在の論証のための証明根拠

一 必然的存在は精神である
 必然的存在には知性と意志という属性も属する。帰結は根拠を上回ることはできないから。

四 結論
 「私は考える」の「私」は決して絶対的に必然的な存在ではない。なぜならば、私は一切の実在性の根拠ではなく、私は可変的であるからである。また、存在しないことも可能であるもの、すなわち、それが廃棄されても同時に一切の可能性が廃棄されるのではない存在は、必然的存在ではない。さらに、どんな可変的なものも、制限を受けているものも必然的存在ではない。したがって世界そのものもまたそのような本性の必然的な存在ではない。
 われわれが与える神の現存在の証明根拠は、「なにものかが可能である」というただ一点の上に打ち立てられている。それゆえにこの証明は完璧にアプリオリ(経験に先立って)に遂行されうるのである。この証明は、私の存在も他の精神的存在も、いわんや物体界の存在も前提とはしていない。それは事実として絶対的必然性の内的性格からのみ取り出されたものである。われわれはこのような仕方でこの存在の現存在をそれ自身の絶対的必然性を実際に構成するものから、したがってまさしく生成から認識するのである。
 この存在が生み出した結果から発してその原因の現存在へと遡る今までの証明はすべて、それが厳密に証明されたとしても(実際にはそうではないのだが)、この必然性の本質を決して理解できるものとはなし得ない。「なにものかが絶対的に必然的に存在する」という事実だけが、「なにものかが他のものの第一原因である」ということを可能とするのである。
 神的存在によって与えられる事物の可能性そのものは神の偉大な意志と一致するのである。この一致においてこそ善と完全性が成立する。そしてこの一致は同一のものにおいて一致するのだから、事物の可能性の内においてさえも統一と調和と秩序が存在するのである。
 しかし、もしわれわれが経験が教える事物の本質的性質についての成熟した判断によって、それらの内的可能性の必然的規定においてすらも多のうちの統一と分離における調和を知るならば、われわれはアポステリオリ(経験から)な認識の道によって一切の可能性の唯一の根源へと遡ることができ、ついにはその同じ根本概念において絶対的に必然的な現存在を見出すことができるだろう。ここからわれわれは当初アプリオリな道によって出発したのである。今やわれわれの目的が向けられるのは、事物の内的可能性においてすらも秩序と調和への必然的関係が、そしてこの計り知れない多様性において統一が見出されないか、ということである。それによって、事物の本性そのものが最高の共通した根拠を知っているかどうかをそこから判断することができるのである。



第三部 上述の証明根拠以外には神の現存在の論証はありえないことが示される

一 神の現存在のあらゆる可能な証明根拠の分類
 神が存在するという偉大なる真理の確信は、われわれがそれに最高度の数学的確実性を持たせようとするならば、唯一の道を通してのみ到達されうる。
 もともと満たすべき要請は、きわめて偉大で完全な第一原因の現存在ではなく、最高存在の現存在を、ひとつまたはいくつかの存在ではなく、唯一の存在の現存在を、そしてこれを蓋然性の大きな根拠によってではなく、数学的明証性をもって証明するという要請である。
 神の現存在の証明根拠はすべて、単に可能なるものという悟性概念から、または実在するものという経験概念から導かれうるだけである。第一のケースでは、根拠としての可能なるものから帰結としての神の現存在へと推論されるか、または、帰結としての可能なるものから根拠としての神の実在へと推論が行われる。第二のケースでは、再び、我々が経験する現存在から第一の独立的な原因の存在のみへと推論し、この概念の分析によってその神的諸属性が推論されるか、または、経験が教えることから神の現存在のみならず諸属性までもが直接に推論されるかである。

二 第一種の証明根拠の吟味 
 根拠としての単に可能なるものの概念から帰結としての現存在が推論されるデカルト的証明は不可能である。この場合、可能なるものの中に現存在が含まれていなければならないから。現存在は述語ではなく、それゆえに完全性の述語でもないこと、したがって、なんらかの可能なるものの概念を構成するためにさまざまな述語を恣意的にひとつにしたものを含んだ定義からこのものの現存在は決して推論されえず、神の現存在も推論されえない。
 これに反して、帰結としての事物の可能性から根拠としての神の現存在への推論はまったく種類を異にする。ここでは、なにものかが可能であるためにはなんらかの実在するものが前提されねばならないのではないかということ、それなしではいかなる内的可能性ですら成立しない現存在は、われわれが神の概念のもとで一括結合する諸属性を含んでいるのではないか、ということが探求される。この場合制約された可能性から現存在を推論することはできない。内的可能性からのみ導かれる。

三 第二種の証明根拠の吟味
 実在するものの経験概念から発して神の現存在に達し、同時にその諸属性が推論される証明は可能であるばかりでなく、努力を結集してふさわしい完成にもたらすに完全に値する。われわれの感官に現れてくる世界の事物は、その偶然性のはっきりとした徴表を示すと同時に、偉大さと我々がいたるところで自覚する秩序と目的にかなった仕組みによって、偉大な英知と力と善性を持った理性的創造者の証拠もまた提示している。
きわめて広範囲におよぶ全体に見られる統一性は、これらのものすべての唯一の創造者が存在することを示している。
 
四 神の現存在の証明はただ二通りのみ可能である。
 実存するものの経験が我々に教えることから神の現存在を証明する方法(宇宙論的証明)は、最高原因の現存在だけでなく性状をも推論しうる。しかし、この証明方法は数学的確実性と厳密性を持つことができない。
 一切の事物の内的可能性そのものをなんらかの現存在を前提とするものと見なす証明方法(存在論的証明)は厳密性を持ちうるように見える。
 しかし、論理的厳密性と完璧性に関しては存在論的証明だが、健全な一般常識にとっての分かりやすさ、印象が生き生きとしており、美しく、人間の道徳的推進力に対して訴える力を求めるならば、宇宙論的証明に優位を認めるべきである。

五 神の現存在の論証はただ一つしかなく、そのための証明根拠は上述された 事物は存在しないことも可能である。したがって偶然的な事物の経験は存在しないことが不可能な存在の証明根拠になりえない。
 内的可能性、事物の本性こそは、それを廃棄するとあらゆる思考可能なるものを絶滅する当のものである。ここにこそ神の存在証明根拠がある。


カントの論文は
「カント全集3 訳者福谷茂他 岩波書店発行」より抜粋


[15] 「純粋理性批判」
モリタ - 2005年10月04日 (火) 13時26分

カントはのちに、「純粋理性批判」の中で、「神の現存在の存在論的証明が不可能であるゆえんについて」記述しました。

カントは「神の存在の唯一可能な証明根拠」において唯一可能な神の存在証明の仕方を提示したのですが、その中身については結局わからなかったのです。

カントは、物の内的可能性を、物単体における内的可能性という範囲でしか考えませんでした。
カントは、物を単体としてしか見なかったのです。それで、最高存在たる神があろうとなかろうと物が存在することに変わりはないと考えましたし、物の存在原因として神が存在するという命題は神も存在物のひとつに含むことになってしまい矛盾すると論じました。そして、神を概念以上のものとしては捉えられなかったのです。

「相対的関係がなければいかなるものも存在できない」という命題は、カントの考察には含まれていませんでした。
カントの見出すことが出来なかった内的可能性なのです。

存在するというとき、既に相対的関係があることが含まれています。いかなるものとも相対的関係を持っていなければその存在を認識することは不可能だからです。そして、存在するものについて考察している現考察において、存在するかどうかわからないものを考慮に入れる必要はまったくありません。


物が存在するためには相対的存在との間の相対的関係が必ず必要だとするとき、相対的関係をなす2者とその関係をなすための先有条件を与える必然的絶対的存在としての神の3者間の関係が出てきます。この関係性こそ、神の存在を証明しうる唯一の証明なのです。この場合、先有条件を与える絶対者の存在なくしては相対的関係が成立せず、存在すると言えるものは一つもなくなります。
この3者の関係はカントの考察にはなかったものです。

参考文献
「カント全集5 有福孝岳訳 岩波書店発行」



[16] 神は存在するか
catbird - 2010年02月13日 (土) 14時53分

神は存在するか。では神とは何でしょうか。その問いに答えるには、まず私とは誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳をとりだしたらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。
赤いとか熱いとか感じている存在が私です。では、赤い熱いと言う感じは、物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界(外界と呼ぶ)には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。では、音はどうでしょうか。外界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている様な音は存在しません。味はどうでしょう。同様に味もありません。臭いはどうでしょうか。臭いも外界にはありません。熱い冷たいと言う事は、在るでしょうか。物質が振動しているだけです。絶対0度では、全ての振動が止まります。温度が高くなるに従って、物質の振動が大きくなって行くだけです。熱い冷たいもありません。全て心が作り出したものです。次々に、心が作り出している感じを捨てて行きます。最後に残るのは、この範囲にあるものが存在している、そして時間が経過しここに移動したと言う、時と空間の直感だけです。
しかし、貴方が感じている時空間も、決して心の外にある時空間を、直接感じている訳ではありません。心が作り出した時空間を、感じているのです。心が作り出したものを取り去ると、何も残りません。仏教では色即是空と言います。心が作り出したものは、現れたり消えたりします。従って、是と言った実態はありません。つまり、有でも無でも無く空なのです。耳から聞こえる音も、鼻から匂う匂いも、舌の味も、肌から受ける触感も5感は全て空です。5感=色、概念=受、感情=想、意思=行、認識=識からなる心の働き全ては、現れたり消えたりし、定まった実態はありません。五蘊皆空です。ですから、赤い熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して、全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。
この世の中には、物質でないものも存在しています。もし物質だけであったら、どうでしょう。ロボットは物質だけで出来ています。科学が発達し高性能なロボットが出来たら、人間と同じ反応をするでしょう。世間話をして冗談を言うでしょう。やかんに触れると熱いと言うでしょう。しかし、私たちが感じている熱さを、感じている訳ではありません。何かを感じていると言う事は、人間は物質だけから出来ているのでは無いことを証明しています。
心の外の世界がどうなっているか、私には全く知る術がありません。しかし、心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。
花を見たとします。眼が光の刺激を受けて、神経の中を信号が流れ、脳に到達します。脳がその信号を受けて、脳の中の物質の一部が花に対応する動きをします。私は、その花に対応する物質の動きを感じて、花を感じるのです。それは丁度、カメラが光の刺激を受けて、ケーブル及び電波で信号が流れ、テレビに到達し、その信号をテレビが受けて絵や音を作りだし、それを私が見ているのと同じです。
テレビを見ているのが私です。決して、テレビが私なのではありません。では、脳と言う物質が私なのでしょうか。花を感じているのが、私なのです。脳と言う物質そのものが、花を感じているのでしょうか。もしそうなら、そこらに転がっている石も何かを感じているはすです。本当に、陽子と中性子の周りを電子が回っている存在が、何かを感じているのでしょうか。赤いとか熱いとか言う感覚は、決して物質ではなく、精神的な存在です。その様な精神的なものを感じている私は、物質ではなく精神的な存在なのです。決して、石や木が何かを感じている訳ではないのです。赤い熱いと言う感じは、私の一部です。私は、精神的な感じの集まりなのです。
テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。もし、見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。
同様に、もし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。科学が発達し、かつて脳を構成していた、物質を掻き集めて、元の通りに組み合わせて、脳を作ったら、また、私は元の通り感じるようになるでしょう。
仏教ではこの事を、不生不滅・不垢不浄・不増不減と言っています。私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。穢れるものでも、清くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。
死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。私自身は、死んだ後も何ら変わらずに存在しています。ただ、信号を送る脳が無くなったので、何も感じていないだけです。そして、新しい脳が信号を送り出したとき、私は又前と同じ様に感じるでしょう。ただし、人間の脳とは限りません。
心の中に作り出された世界は、私の一部です。心の中の世界に居る一人の私が、私なのではありません。その1人は、宗教上小さい私とかアートマンとか呼ばれています。心の中の世界に居る私の敵も、私の一部です。ですから、キリストは汝の敵を愛せよと言えたのです。
人間の脳より遥かに高性能な脳が私に刺激を送る様になれば、もっと豊かな世界が心の中に広がるでしょう。そう言う意味で、現在私が感じている世界は、私のほんの一部にしか過ぎないのです。私に限界はありません。脳と言う物質がどんどん進化して全知全能な物質になり、私に信号を与え出したら、私は全知全能になるはずです。本来の私は、全ての感じの集まりなのです。全てなのですから、これ以上の精神的な存在はありません。この私を大きい私とかブラフマンとかと呼ばれています。
宗教の目的は、小さい私の誤解を解いて、大きい私を自覚することにあります。それが、悟りです。仏に成るのではない貴方が仏なのだと言っています。天上天下唯我独尊です。神の子です。ブラフマンです。貴方は、自分の存在を疑えますか。デカルトは、全ての事を疑って見ました。しかし、考えている自分の存在だけは疑えませんでした。これが神は存在するかの答えです。



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