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バッハ(15)
グッキー (16)投稿日:2003年01月31日 (金) 00時07分 返信ボタン

 ショールズのいう妥協とは、いくつかの音階が収まるように、音階中の
個々のピッチを上げたり下げたりすることを意味した。しかしショールズが
指摘するように、若干の音階は中全音律パターンから全く離れてしまって、
使用不能となる。初期の音楽ではロ長調、嬰ハ短調といった、ごく当たり
前の音階がほとんど見られない。しかしバッハは例外であった。アンドレアス・
ウェルクマイスターの『音楽の平均律』(1691)を手がかりに、バッハは
オクターブを十二の楽音にほぼ平均して分割した。この妥協手段ではどの
音階も完全無欠とはならず、あらゆる音階にわずかの不完全さが残るが、
この不完全さは耳が許容するに足る些細なものであった。バッハ方式なら、
どの音階にでも転調できるようになり、十二の音のいずれもが主音の役目を
果たすことができた。彼はこの調律法でどんなことがやれるかを例証する
ため『平均律クラビーア曲集』を作った。二巻に分かれ、四十八の前奏曲と
フーガを含んでおり、それぞれ二曲ずつ長短の全音階で作曲されている。
 近年、バッハの音楽象徴主義に関して多くの著作や論文が書かれている。
このアイディアを提唱した最初の一人は、アルベルト・シュヴァイツァーで
あった。彼は、バッハが基本的に音を用いた画家であっただけでなく、しばしば
自分の作品中に恐怖、悲しみ、希望、物憂さなどの特別の心理動機を注入した、
と主張した。シュヴァイツァーによると、この動機の意味を解明しない限り、
バッハの作品を解釈することは不可能であるという。シュヴァイツァーの主張の
大半は、今日では否定されているが、ただ少数のバッハ専門家の間では、
バッハの音楽から宗教や数字の象徴を読み取る茶の間遊びが以前行われている。
数字をアルファベットの文字に置き換えてみる試みは、バッハ時代でも時々
行われていたようである。カール・ガイリンガーが1966年に発表したバッハ伝
から引用すれば――「例えば14はBACHを象徴する数字である(B=2、A=1、C=3、H=8)。
これをひっくり返すと41になり、J.S.BACHを表す。すなわちJは
(アルファベットで)9番目、Sは18番目の文字であり、9+18+14=41
となるからだ。バッハの合唱曲の最終作品には、この象徴的方法が暗示的に
用いられている」。
 これがバッハの実際に用いた方法だったとすれば、はなはだバッハらしくない
ことをやったものだ、と言いたくなる。このような頭の体操は、ある種の人たち
には刺激を与えるのかもしれない。だが、幸いにも、バッハの音楽はこうした
人工的なカラクリがなくても、十分鑑賞できる。バッハのように“正さ”、必然性、
知性、音を論理的に並べる手腕をこれほど見事に備えた音楽は、文献資料中に
存在しない。そして大作曲家の作品としてバッハほど宗教、特にルター派信仰と
密接に結びついた音楽もまれである。バッハは、音楽とは神性の表現であると
まじめに信じていた。彼は宗教音楽の楽譜の始めにJJ(「神よ助け給え」の略語)、
終わりにSDG(「神のみに栄光あれ」の略語)と書いた。一、二の学者が、バッハは
実は信心深い作曲家ではなかったのだと立証しようとしたが、説得性に不足し、
その論理についていくのは困難である。


バッハ(14)
グッキー (15)投稿日:2003年01月30日 (木) 03時06分 返信ボタン

 バッハは自分が引き継いだ形式を土台に、これを拡大、改良、精錬する
ことに常に努めていた。彼はクラビーア・コンチェルトを開発した。彼が
作った無伴奏弦楽器のための音楽は、その創意、複雑さ、演奏の困難さの
点で、他のいかなる作品よりも抜きん出ていた。バッハのバイオリンの
腕前はどの程度だったろうか。バイオリンの巨匠でなければ、このような
構成を考えつかなかったことは確かである。また当時、世界中でいったい
何人のバイオリニストが、このように極度に演奏者を酷使するような難しい
曲を正確に弾けたであろうか。
 『無伴奏バイオリン・パルティータ・ニ短調』の巨大なシャコンヌは、
これら無伴奏弦楽曲のなかで一番よく知られている。しかし『ハ長調ソナタ』
のフーガも同様に力強く雄大な発想である。『無伴奏チェロ組曲』のフーガ
楽章もまた、極端に複雑で困難である。当時の名演奏家の一人として、バッハは
難曲を弾きこなすことを明らかに楽しんでいた。『ブランデンブルク協奏曲
第5番ニ長調』のクラビーア・カデンツァのように、彼の音楽には快適な妙技を
思い切って披露させる個所が含まれている。そして彼のオルガン曲の多くは、
手足をもつれさせる難曲である。『オルガンのための前奏曲ニ長調とフーガ』
の演奏を終えたバッハが「さあ、私を負かせられるかどうか、やってごらん」
と挑戦しているという空想が起きてくる。
 バッハは今日用いられている平均律を確立した人物である。それまでも
作曲家たちはこの方向に努力していたが、平均律が実際的で、しかもこれ
しか方法がないことを実証する仕事はバッハに残された。彼の時代までは、
異なった音階の半音を意味する中全音律が一般に用いられていた。問題は、
全音と全音の間の和声律を一貫させるよう、オクターブの中に全音をいかに
配置するかであった。中全音律では、どんな調性でも音階を配分できるが、
例えばハ長調に有効な音階は、ヘ短調には有効でない。ドイツの音楽理論家
フリードリッヒ・ウィルヘルム・マルプルク(バッハと同時代の人)は「一つの
音階を美しく見せようとすると、三つの音階が醜くなる」と述べた。
 イギリスの音楽学者パーシー・A・ショールズは「どの音階楽器にせよ、
一音階以上を完全に調律することは不可能である。もしハ調に正確に合わせた
とすれば、他の音階で演奏すると途端に、楽音のいくつかが調子はずれになる。
中全音律では、完全なのは一つの音だけであった。しかし妥協によって、
特定数の音階を耳が許容するに足る程度に完全とし、残りを除外した」と
述べた。


バッハ(13)
グッキー (14)投稿日:2003年01月28日 (火) 08時17分 返信ボタン

 二百年以上にわたって音楽家は、バッハが『フーガの技法』で対位法について
知られた一切を要約したあと、自身の大天才を付け加え、壮大さと詩情において
唯一無比である作品を創造した、その信じがたいテクニックと創意に接して畏怖
の念に駆られてきた。これはバッハの主要作品として最後のものであり、彼は
これを完成させなかった。巨大な三重フーガを作曲中、彼は対位法に自身の姓を
入れることを決めた(ドイツ方式ではBは変ロ調、Hはロ調の本位記号)。彼の
名前が出現したところで自筆の楽譜は停止する。トヴェイ、リーマンら一部音楽家は
残りを補足してこの作品を完成させたが、これらがコンサートで演奏されたことは
ないし、演奏するべきではない。B・A・C・Hの主題を聴いたあと、フーガ開始
と同時に突然訪れる沈黙に接する感情的ショックは、人間を圧倒する経験である。
 多声音楽はバッハの一側面にすぎない。彼は組曲またはパルティータの名称で
一連の舞踏楽章を、あるいは敬虔なカンタータを、あるいは『ロ短調ミサ曲』や
『マタイ受難曲』のように雄大な音楽を、あるいは壮大な構想と圧倒的な響きを
持ち、手足を縦横に動かさねばならないオルガンのための徹底的な技巧曲を
(これらオルガンのための作品はバロック・オルガンで演奏するべきであり、
決してロマンチック・オルガンで演奏してはならない)、あるいは無伴奏
バイオリンまたはチェロのための複雑な作品を、あるいはショパンとワーグナー
の到来まで色調の強さで比類のなかった『ゴールドベルク』という一連の
ハープシコード変奏曲(とくに25番の変奏曲はすばらしい)を――以上の
音楽をバッハは書くことができたのである。
 バッハの音楽を同時代の作曲家から画然と引き離しているのは、何にも
まして和声の強さである。バッハの音楽精神は全然因襲的ではなく、彼の
作品は意外性に満ちている。予想外のもの、通常の規則からはずれたもの、
その材料からバッハしか発想できなかったもの、で溢れている。例えば
ヴィヴァルディの合奏協奏曲は、主として主和音、つまり支配的ならびに
従属的和音をもとにして進行し、安全圏の中で音調を探究している。バッハ
の音楽では全く新しい和声の言葉が作られる。すぐれた和声感はほとんど
すべての大作曲家の特徴であり、臆病で創意のない同時代の作曲家との格差
をつける要素である。同時代の作曲家の大半が規則に縛られていたのに対し、
バッハは自分が規則を作った。すでに青年時代から、彼は音楽の和声上の
可能性を懸命に調べていた。彼が譴責を受けたのは、このためであった。
聴衆はこのように大胆な音楽になじんでいなかった。アルンシュタットで
当時21歳のバッハは、これまでに「合唱の中に奇妙な変奏部をたくさん
挿入し、奇妙な楽音をたくさん混合した。このため教会は混乱に陥った」
として非難された。年を取るにつれて、彼の和声上の冒険はますます顕著
になった。


バッハ(12)
グッキー (13)投稿日:2003年01月26日 (日) 21時37分 返信ボタン

 大体において、おそらく彼は自分で音楽を学んだようである。バッハ、
モーツァルト、シューベルト級の天才音楽家は、そもそも大した音楽教育
を必要としない。彼らの精神はあらゆる音楽衝動を直ちに吸収する吸い取り
紙のようなものである。正しい方向を指示して、ちょっと後押しするだけで
よい。これはバッハについても言えることであった。最初からバッハは、
あらゆる所から音楽を吸収して自分のものにした。これはオペラを除いた
音楽の全領域にわたっていた。バッハの音楽には無限の変化がある。最悪の
作品では(バッハは粗悪な作品は作らなかったが、退屈な作品を書くことが
あった)バッハの音楽は性急で苛立っている兆候が見え、特定の場合の要求
に応えるきまりきった作品を、一気に片付けようとしている様子がありありと
わかる。だが彼の平均点は極めて高く、最上の場合、彼の作品は音楽芸術の
頂点に位置している。
 バッハは当時の公式を利用して、これを新鮮で独創的に聴かせることができた。
なぜなら、これらの公式は自身の公式であったからである。『平均律クラビーア』
に収められた四十八の前奏曲とフーガは、ショパンの練習曲と同様、1曲ごとに
ユニークである。西欧人の偉大な知的離れ業の一つと万人が讃える『フーガの技法』
は巨大な作品であり、未完に終わったものの、これも尽きることのない多様性と
想像力の満ち溢れた、一連の対位法的変奏曲で構成されている。
 バッハが『フーガの技法』をどのように演奏して欲しいと思っていたのか、
だれにもわからない。オルガン曲としてか、あるいはオーケストラ曲なのか、
それともこれらの中間的性格のものなのか。楽器が指定されておらず、ドイツの
学者フリードリッヒ・ブルーメは、バッハ自身が『フーガの技法』のような作品
が実際に演奏されるかどうか、また演奏が可能かどうか、といった問題には関心
がなかった、とまで主張している。「この作品の中で彼は、ベラルディ、スウェーリンク、
スカッキ、タイレ、ウェルクマイスター、G.B.ヴィターリを経由してパレストリーナ
時代のローマ派から自分が継承した、完全な対位法の技術の伝統を残したいと望んでいた。
これは“高踏的な”作業であり、全く抽象的な理論を黙々と伝達することである」
とブルーメは書いている。多分そうであったかもしれない。しかし、演奏されない
抽象音楽を書く作曲家がいったいいたであろうか。どうも疑わしい。いずれにせよ
『フーガの技法』は対位法を至高の域にまで持ち込んでいる。
 この作品の複雑さをざっと説明してみると―まず四つのフーガから始まるが、
うち二つは主題を提示し、別の二つはこの主題を反対側から提示する(つまり表裏一体
である)。二重フーガ、三重フーガ、いくつかのカノン、三対の投影フーガがある。
カール・ガイリンガーの表現を借りると「バッハはすべての声部をまず原初の形で
提示し、次に反射像のように、これを完全にひっくり返す。鏡の投影を一層リアルな
ものにするため、第一フーガの最高音部が第二フーガの低音部となる。アルトがテノール、
テノールがアルト、バスがトレブル(ソプラノの最高音部)と変化し、その結果、
12番の2は12番の1の逆立ちのように見える」。


バッハ(11)
グッキー (12)投稿日:2003年01月25日 (土) 13時31分 返信ボタン

 また、バロック時代になって古い教会旋法が姿を消し、その音階と関連
音調が結合して、今日までこれが使用されている。さらにリズム概念が
発達して、楽譜に音勢を示した縦線が導入された。また、ソナタ、交響曲、
協奏曲、序曲の直接の端緒となった諸形式が発達した。しかしバロックは、
トッカータ、ファンタジア、前奏曲、リチェルカーレなど、それ自体の
自由な形式も持っていた。
 バロック時代は文化的な中産階級の興隆を見た時代であった。音楽は
宮廷や教会から都市部へと拡大し、中産階級市民の多くが音楽の楽しみ
を要求した。これが今日の公開演奏会のハシリであった。音楽家たちは、
時としてヘンデルの場合のように、驚くべき財政的成功を基礎として、
こうした要求に応え始めた。音楽学校が設立され、喫茶店までがお客を
満足させるために音楽の演奏を始めた。バッハもこうした企画に関係し、
長年の間ライプチヒのツィンマーマン喫茶店で、毎週金曜日の午後八時
から十時まで、定期演奏会を指揮した。参加者は(1736年の発表に
よると)「主として当市の学生であり、すぐれた音楽家がまじっていて、
彼らの一部は周知のように後世、有名な大演奏家になる」。
 バッハによってバロック音楽は頂点に達した。彼は過去の一切を集大成し、
将来に来るものの多くを見越していた。彼はバロック音楽を自分のものに
した、学識豊かな音楽家であるだけでなく、すべての音楽に精通していた。
たしかに彼は、当時最高の教養を備えた音楽家の一人であり、ヨーロッパに
起こりつつある現象を知りぬいていた。古代であろうと当代であろうと、
入手できるあらゆる音楽を知り、吸収したいという意欲に燃えていた。彼が
音楽史に関心を持つ学者であったわけではない。例えば彼が中世音楽を発掘
しようと骨を折ったという証拠はない。こういう仕事におそらく彼は興味が
なかったであろう。圧倒的で、強制的でさえあった彼の関心の的は、テクニック
であった。作曲家たちがどのようにして曲を組み立てたか。彼らのアイディア
の本質は何か。こうした問題についてバッハは、飽くことのない職業的好奇心
を持っていたようである。それは意識的または無意識的に、自分を他の作曲家
と比較したかったからであろうか。新しい音楽が演奏されると、出席できる
場合はいつでも、これを聴きに出かけた。そして聴けないものに関しては、常に
楽譜を読んでいた。もちろんバッハは、会計係が帳簿を、通勤者が夕刊を読む
のと同じくらい容易に、楽譜を読むことができた。
 青年時代の彼は職務から抜け出しては、特にヴィンセント・リューベックや
ブクステフーデら大オルガン奏者の演奏を聴きに行った。彼は有名なヘンデル
の演奏を聴けなかったことを、人生の大痛恨事の一つとしていた。彼はパレストリーナ、
フレスコバルディ、レグレンツィの古い音楽も、ヴィヴァルディ、テレマン、
アルビノーニの新しい音楽も、知っていた。彼はリュリからダングルベール、
クープランに到る、フランス派の音楽を熟知していた(イギリス派の音楽を
知っていた形跡はない)。ドイツの作曲家中、彼はフローベルガー、カール、
フックス、シュッツ、タイレ、パッヘルベル、フィッシャーの音楽を評価して
いた。ドメニコ・スカルラッティの合唱曲も知っていた。幼年時代に音楽に
対する無限の食欲を持ちながら育ったバッハは、死ぬまでこの食欲を満足
させることができなかった。


バッハ(10)
グッキー (11)投稿日:2003年01月24日 (金) 11時25分 返信ボタン

 彼の指揮法の細部はわからない。テンポがどのようで、どんなリズム観を持ち、
いかなる表現手段を使ったのだろうか。今日、バッハの演奏法をめぐる微妙な
ポイントは、多くが消失してしまった。われわれはただ、ピッチ、楽器、装飾、
潤色、バランス、それにリズムやテンポ、といったことにあれこれ推測を
めぐらすだけである。例えばピッチの問題だが、バッハの時代は、今日より
まるまる一音低いことが往々にしてあった、と学者は断定した。しかし、
現在も演奏可能なバッハ時代のオルガンが残っていて、その音階は今日のより
高いのである。バッハがどのように楽器を調律したのか、もわからない。
潤色については、バッハの作品中の潤色の書き込みに関する研究書が何冊も
出ているが、権威者の意見が一致しないことが多い。それが全く意外でない
わけは、バッハと同時代の権威にしてからが、意見の一致に到らなかったから
である。おまけに、楽譜に記してあるよりも長く一定の音を演奏するといった、
楽譜に書き込みのない慣例が色々あったようである。良心的な音楽家が専門研究
を重ねたあと、やはり推測するほかないという結果に終わる。
 しかし演奏の慣例はうつろいやすく、世代に応じて変化するものであるのに
反し、バッハの音楽そのものは、かつてなく強固な市を占めるに至っている。
というのは、われわれは今や歴史的視点に立ってバッハの音楽を検討することが
できるが、これをヘンデル、ヴィヴァルディ、クープラン、アレッサンドロ・スカルラッティ
ら、同時代の他の大作曲家の作品と比較する時、どのように測定してもバッハが
全部を圧倒するからである。彼の想像力はだれよりも雄大であり、テクニックは
比類がなく、和声感は表現性、創意の点で驚異的である。そして、バッハは旋律面
では大作曲家といえないにしても、例えばアリア『汝よ、私のそばにあれ』や、
まるで潮の満干のようにフレーズが静かに、堂々と、気高く進行する
『トリオ・ソナタ・ホ短調』の緩徐楽章のような、言葉でいい尽くせぬ恍惚感を
与える音楽を作り出すことができた。
 バッハはバロックの作曲家であった。音楽におけるバロック時代とは、およそ
1600年から1750年までの期間を指している。偉大な人物たちが演奏した
バロック音楽には、顕著なマニエリスム(=誇張の多い技巧的な)の作風が
うかがわれた。それは神秘主義、豊麗さ、複雑さ、装飾、寓意、歪曲、超自然的な
物または雄大な物の利用など、一切を突き混ぜたものであった。ルネッサンス時代
(そして後ほどの古典時代)が秩序と明晰さを代表しているなら、バロック時代
(そして後ほどのロマン派時代)は動き、混乱、不確かさを代表していた。
バロック音楽はクラウディオ・モンテヴェルディ(1567―1643)や、
オペラを“発明した”フィレンツェ一派らとともにイタリアで発祥し、
あっという間にヨーロッパを席巻した。バロック時代になって、四部和声
および数字が正しい和声を示している通奏低音が、目立って用いられるように
なった。通奏低音はバッハにとっては神から授けられたシステム同然であり、
彼はある生徒に次のように語ったといわれる。「通奏低音は最も完全な音楽の
基礎であり、左手が楽譜の音を弾き、右手が協和音や不協和音を加えるような
形で両手によって演奏される。これによって、神の栄光と人間精神の節度ある
愉悦のために良い音の和声を作り出すことができる。すべての音楽と同様に、
通奏低音の目的と究極の動機は、まぎれもなく神の栄光と精神の再創造に
なければならない」


バッハ(9)
グッキー (10)投稿日:2003年01月23日 (木) 02時19分 返信ボタン

 バッハはこの未熟な素材で最善を尽くした。おそらく彼は、オーケストラの
楽器の大半を弾くことができたとみられ、現代の指揮者とほぼ同じように手勢
を動かした。ふつう彼は、バイオリンかハープシコードを演奏しながら指揮を
した。初期の指揮法の歴史に関しては学問的研究がほとんど行われていないが、
19世紀になるまで指揮者は実際に拍子を取ることはしなかった、と一般に
考えられている。けれども、アンサンブルを指揮する人物がたしかに拍子を
取ったことを示す証拠が、バッハ時代から豊富に存在している。実のところ、
バッハが不運なクラウゼの試験をした際、特記事項として、この学生が正確に
拍子を取れないこと、つまり「彼は二つの主要拍子、すなわち偶数拍子(四分の四
拍子)と奇数拍子(四分の三拍子)を正確に取ることができなかった」と
述べている。
 すべての目撃者談から判断して、オーケストラの先頭に立つバッハは支配者の
様相を呈していたようである。彼はすばらしい読譜力を持ち「聴力は極めて繊細
で、大アンサンブルの中でも、ごく些細な誤りを発見することができた」。
指揮の最中、彼は鼻歌を歌い、自分の担当の楽器を弾き、リズムをしっかり
と保ち、全員に演奏指示を与えたが、その方法は「一人目にはうなずくことで、
二人目には足を軽く踏み鳴らして、三人目に指で注意することで、行った。また、
一人目には自分の声の高音部で、二人目には低音部で、三人目には中音部で、
それぞれ正しい音を指示した。
 これらすべてを、楽員の発する大きな騒音のさなかで、バッハがたった一人で
やってのけた。彼は最も難しい部分を担当しながらも、いついかなる所で誤りが
起こっても直ちに気づき、全員を団結させ、到る所で注意し、頼りなさがあれば、
これを修正し、彼のからだの隅々にまで、リズムが漲っていた」――と、厄介な
エルネスティの前任者だった聖トマス校長、ヨハン・マチアス・ゲスナーは
演奏中のバッハの模様を描いている。
 バッハの息子カール・フィリップ・エマヌエルは、バッハが特に調律に
やかましかった、と語っている。オーケストラ演奏でも自宅の楽器についても、
バッハは調律に最大の注意を払った。「なんぴとの調律や弦張りも彼を満足
させなかった。彼は何でも自分でやった。・・・最大のアンサンブルの中でさえ、
ほんの小さな音の誤りを聞きとれた」。現代的な意味の指揮者の概念は、
まだ考え出されていなかったが、バッハが名称以外のすべての点で現代の
指揮者であり――おそらく、あの短気からして、怖い指揮者であったことを
知るのは興味深い。


バッハ(8)
グッキー (9)投稿日:2003年01月21日 (火) 10時11分 返信ボタン

 要するにバッハという人間は、他人の言いなりにならなかったのであり、
彼はこの態度を音楽演奏に持ち込んだ。自分の周囲の凡庸さに彼がどんなに
憤ったことか。この完全無欠な音楽家、比類なき大演奏家、その理想が当時
知られていた音楽的宇宙を全部包み込んだ作曲家、この巨人が、ライプチヒ
では情けない学生たちや、自分が必要とし望んでいた実力を、遥かに下回る
人間共と一緒に仕事をする羽目になったのであった。1730年に彼は、教会
音楽隊に入れる最小限の資格要件を作った。市評議会への通告によると、聖歌隊
には最小限十二人の歌手が必要だが、十六人いれば、なお結構である。オーケストラ
には十八人の楽員が要るが、二十人の方がさらに望ましい。
 しかし実際の手持ちといえば、四人の町雇い楽師、三人の職業バイオリン弾き、
一人の見習い、と総勢たった八人である。しかも「彼らの資質や音楽知識について
本当のことを語るのは、私の謙譲の美徳が許さない」とバッハは言った。彼は
サジを投げた。こうした状況には、我慢がならないが、そのうえ学生の大半は
才能を持っていない。ライプチヒの演奏水準が低下しているのはこのためだ、
とバッハは言った。最後に彼は学生の質をこう要約している。十七人は“使用不能”
二十人は“まだ使用できない”17人は“適性がない”のだが、これら五十四人が
ライプチヒの四教会の合唱隊を構成していた。一番運の悪いのは聖ペテロ教会で、
そこの合唱隊は「音楽を理解せず、やっとコラールが歌えるだけの者」で成り立っている。
(「流しの音楽師」にバッハが触れていることに注意されたい。これら楽師諸君は
何でもやれる音楽家だったらしい。1745年にバッハは、流しの一人で
カール・フリードリッヒ・プファッフェという立派な名前を持った男を試験した。
「彼は列席者が拍手を送るなかで、流し楽師が通常用いる楽器のすべて、すなわち
バイオリン、オーボエ、横笛、トランペット、ホルン、その他の金管諸楽器を
極めて上手に演奏することがわかり、彼の求めている助手のポストに好適である
ことが判明した」とバッハは書いている)
 さて、以上がバッハが取り組まねばならなかった素材であった。時々、
特別の場合には、もっと多くの楽員を獲得することができた。『マタイ受難曲』
のために彼は四十人以上をかき集めた。バッハが大演奏集団を切望していたのは
明らかであり、今日“正統性”の名のもとに『ロ短調ミサ』や二つの受難曲の
ような大規模な作品を、1730年のバッハのメモに基づいて、少数の人間で
上演するのは誤りである。もちろん、いかなる人数で演奏するにしても、
バッハ的演奏を保持しなければならないし、完全な明晰さで作品を演奏しなければ
ならない。しかし、これは大きな音を排除するものではない。


バッハ(7)
グッキー (8)投稿日:2003年01月20日 (月) 13時03分 返信ボタン

 そのうえバッハは、同市にある四つの教会全部の音楽番組の、すなわち
生の音楽とその演奏の責任者でもあった。彼は毎週の礼拝のためにカンタータ
を作曲し、その演奏を指揮しなければならなかった。聖金曜日には受難曲を
提供する必要があった。こうした仕事はすべて、カントルのポストにある
人間のノルマだったが、このほか結婚式や葬式のためにモテットを書いたり、
市の祝典に作曲するなど、公務以外の仕事もあり、彼はこれから収入を得ていた。
彼は全くまじめな調子で「いつもより葬式が多いと謝礼もこれに比例して多く
なる。だが吹く風がすこやかだと葬式が減る。例えば昨年は、葬式から入る
謝礼が百ターレル以上も減って、大損をした」と言ったことがあった。
 ライプチヒでバッハは他人の協力、自分の収入、自分に与えられる評価の
いずれの面でも期待を満たされず、例によって市当局者とやがて衝突し始めた。
市評議員のシュテガーは怒りにまかせて、カントル(バッハ)は何もしない
ばかりか「この事実について釈明しようともしない」と言った。おそらくこれは、
評議会がバッハに対してひそかに抱いていた疑惑を確認することになった。つまり
彼がライプチヒに来たのは、評議会が適任と思う候補者が見つからなかったためだ
というわけである。評議員プラッツは「最上の人物が得られないので、凡庸な人物を
採らねばならなかったのだろう」と述べた。こうしてプラッツは、歴史の脚注に
その名を残すことになった。
 彼の言う「最上の人物」は、ゲオルク・フィリップ・テレマン(1681〜1767)
であった。信じがたいほどの多作家で、死ぬまでに三千曲書いたことになっている。
すぐれた音楽家であり、また見事な作曲家であったテレマンは、ドイツでは非常に
人気があり、流行から外れたバッハは、とても彼に及ばなかった。
 このあと1736年に、聖トマス教会学校の校長ヨハン・アウグスト・エルネスティ
とバッハとの大喧嘩が起こった。これは学校を揺さぶり、評議会を狂気に駆り立て、
バッハが頑固さと戦闘本能をあますところなく発揮した事件であった。エルネスティは
ヨハン・ゴットリープ・クラウゼという者を聖トマス学校の級長に選んだ。ところが
クラウゼはお粗末な音楽家で、バッハは激怒した。彼は評議会に抗議し、エルネスティ
がやり返した。非難と反論が繰り返されたが、バッハは降りようとはしなかった。
彼は教会会議に喧嘩を持ち込んだが、ここでも納得できずに選帝侯に直訴した。
 直訴状の宛名は「最も荘厳で偉大なフレデリック・アウグストゥス公爵閣下、
ポーランド王、リトアニア・ロイス・プロシア・マツォビア・サモギチア・キョビア・
フォルヒニア・ポドラヒア・リーフラント・スモレンスク・セベリア・チェルニーンホビア
大公、ザクセン・ユーリヒ・クレーベ・ベルク・エンゲルン・ウェストファーレン候、
神聖ローマ帝国大元帥ならびに選帝侯、ツーリンギア伯爵領主、マイセン・
上下ラウジッツ辺境伯、マグデブルク城主、私の最も敬愛する帝王、選帝侯閣下殿」
となっていた。この事件がどんな結末を迎えたか、知る者はいないが、バッハが勝った
と考えられている。


バッハ(6)
グッキー (7)投稿日:2003年01月19日 (日) 20時31分 返信ボタン

 ワイマールで1717年に、彼は実際に牢に放り込まれている。これは
「あまりにもしつこく辞めさせてくれと言い張った」ためだったが、バッハは
ケーテンへ行きたかったのである。ライプチヒでは金銭問題と手当てのことで
絶えず選帝侯に文句を言い、やがて市評議会との折り合いが極めて悪くなる。
評議会は彼が職務をなおざりにしたと非難するが、バッハの職務は非常に
多かった。1723年、ライプチヒに求職の際、彼は職につけば次のことを
やりますと書面で約束した。
 (1)私は少年たちに正直で控えめな生き方の模範を示し、学校に勤勉に
奉仕し、少年たちを良心的に教えます。
 (2)この市の主要な二つの教会の演奏技術を、できる限り向上させます。
 (3)恐れ多く賢明な評議会に対し、全面的に敬意と服従を示し、その名誉と
評判を守り向上させるために最善を尽くします。また評議会委員が少年
たちの演奏を望まれる時は、ためらわずにこれを提供しますが、それ
以外の場合は現職の市長殿と学校役員殿の事前の承知と同意がない限り、
少年たちが葬式や結婚式のために町外に出るのを決して許しません。
 (4)学校の査閲官殿と役員殿が評議会の名前で出される指示には服従いたします。
 (5)音楽の基礎が出来ていなかったり、全然音楽教育に適していない少年は
学校に入れませんが、査閲官殿と役員殿の事前の承知と同意がなければ、
この措置は取りません。
 (6)教会が不要の出費をしないように、少年たちに声楽だけでなく器楽も
誠実に教えます。
 (7)教会によき秩序を維持するため、音楽演奏は長すぎないように配慮し、
オペラの印象を与えるよりは、聴衆に敬虔の念を起こさせるような音楽を
演奏いたします。
 (8)神と聖徒の居住地にすぐれた学生を提供します。
 (9)少年たちを親切かつ慎重に扱いますが、彼らが服従しない場合は穏やかに
訓戒するか、しかるべき部署に報告します。
(10)学校の規則および学校が私にやれということは何事であれ、これを
忠実に守ります。
(11)そして私自身がこれを実行できない時は、評議会や学校に経費負担をかける
ことなく、他の有能な人物にやらせるよう配慮します。
(12)現職市長殿の許可なしに町の外に出ることはいたしません。
(13)少年たちと葬式におもむく際は、慣例が許す限り、歩いて行きます。
(14)そして評議会の同意なしに大学の職を受諾したり、これを望んだりは
しません。




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