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ヘンデル(7)
グッキー (26)投稿日:2003年02月14日 (金) 10時30分 返信ボタン

 国王との関係改善で精神的に安定したヘンデルは、ロンドンで次々に
オペラを書き上げたが、その際、創造面での配慮とともに、製作面、経済面
にも気を配った。彼は英国貴族社会、特にバーリントン卿、チャンドス公爵ら
と末永い交際を結んだ。ヘンデルは一時期、バーリントン卿のピカデリーの
豪邸に住み、ジョン・ゲイの注目をひいた。英国の文人は、芸術家が誰を
スポンサーとしているかに、常に大きな関心を示した。バーリントン邸は、
芸術家や文士が気軽に出入りすることで有名で、ゲイは自作の詩の中に
こう書き記している――

    されどバーリントンの
     麗しき宮殿は残りぬ。
    美しさ満ちあふるその邸内で
     ヘンデルは弦をかき立て
    心とろかす旋律を奏でぬ。
     聴く者は身にしびれ生じ
    心をよそに移したり。

 ヘンデルはジョージ1世からの四百ポンドのほかに、ウェールズ王女からも
二百ポンドの年金を得て、ロンドンの社交界に飛び込んだ。彼は貴族たちの
後援でオペラ劇団を主宰、欧州各地に歌手スカウトの旅に出た。この間、
奔流のように彼のペンから流れ出たオペラのうち主なものは『忠実な羊飼い』
(1712年)、『テセオ』(同)、『シーラ』(1718年)、『ラダミスト』(1720年)、
『フロリダンテ』(1721年)、『オットーネ』(1723年)、『ジュリアス・シーザー』
(1724年)、『タメルラーノ』(同)、『クセルクセス』(1738年)である。彼はこれらの
作品を、驚くほどのスピードで書き上げた。
 イタリアの台本作者ジャコモ・ロッシは1711年、ヘンデルが『リナルド』
作曲の際にみせた手早さについて、こう書いている。「今世紀のオルフェウス
であるヘンデル氏は、作曲にあたり私に台本執筆の時間をほとんど与えず、
驚くべきことに、わずか2週間で一分のスキもない完全な曲をつけてしまった。
驚嘆すべき天才とは彼のことだ」と。ロッシは気づかなかったが、ヘンデルは
『リナルド』の作曲にあたり、以前に書いたオペラのメロディーをいくつも
借用している。が、彼が極めて筆の速い作曲家であったことは事実である。
彼は生涯に40以上のオペラを作った。そのすべてがイタリア語で、今日
「バロック・オペラ」と呼ばれている種類のものである。


ヘンデル(6)
グッキー (25)投稿日:2003年02月12日 (水) 05時21分 返信ボタン

 もう一つの逸話は、偉大なバイオリニストで作曲家でもあったアルカンジェロ・
コレルリとのものである。ヘンデルの作品を演奏中のコレルリが、高音部で難渋
しているのに業を煮やしたヘンデルは、欧州最大のビルトゥオーソの手からバイオリンを
ひったくると、どう弾くべきかを実演してみせた。温厚で寛大な人柄のコレルリは、
少しも異議を唱えず「ねえ、ザクセンさん、この曲はフランス風でしょ。この手の
ものにボクは弱いんですよ」と言ったという。この逸話のポイントは、ヘンデルと
付き合ったすべての音楽家が、彼に敬意を払ったことにある。彼は誰とでも会い、
あらゆる勉強をし、イタリアの旋律の、太陽のような輝きに影響された。ドメニコの父、
アレッサンドロ・スカルラッティ(1660〜1725)は、特に大きな印象をヘンデルに与えた。
 1710年、ヘンデルはイタリアからハノーバーに戻り、選帝侯つきの宮廷音楽家
となった。同年末、休暇で英国へ渡ったが、そこではイタリア・オペラが音楽的催し物の
中で最大の流行となり、「カストラート」歌手が、その声の力と輝きとで人々を驚倒
させていた。ヘンデルはここで英国民の求めに応じ、オペラ『リナルド』を作曲した。
1711年作曲のこのオペラは、大成功を収めた。彼はハノーバーに帰ったが、眠気を
誘うようなちっぽけな宮廷があるだけで、活躍の場も小さいハノーバーと、富と名声を
得る機会の多い大都市ロンドンとを比べて見れば、彼がどんなことを考え始めていたかは
容易に推察できよう。翌1712年、ヘンデルは「適当な時期に戻る」との条件つきで、
再度英国に渡る許可を得た。しかし、実際には「適当な時期」は生涯到来しなかった。
 再度のロンドン入りを果たすとすぐ、ヘンデルはオペラ『忠実な羊飼い』を作曲、
その直後に、ユトレヒトの戦勝を記念する、雄大な公式行事用の作品『ユトレヒトの
テ・デウム』を作った。彼はまた、アン女王の誕生日を祝う曲を作り、200ポンドの
年金を下賜された。それから2年、ヘンデルは無断で、ハノーバーの宮廷へは全然
帰らなかった。彼に帰る気があったのかどうか、それはわからない。しかし1714年に
アン女王が逝去すると、事態は彼のままにはならなくなった。雇用主のハノーバー選帝侯が
ジョージ1世として、英国王の座に就いたからである。ヘンデルはその頃、自分の身に
何が起こるかと、さぞ不安な日々を過ごしたに違いない。
 しかし、何事も起きはしなかった。日ならずしてヘンデルは、ジョージ1世の寵愛を
取り戻し、年金も倍増した。ヘンデルは『水上の音楽』によって国王の信頼を回復した、
との面白い説があったが、今日では疑問視されている。この説では、ジョージ1世は
1717年、テームズ川で船遊びを楽しみ、その際演奏された『水上の音楽』を褒め讃え、
その場でヘンデルと仲直りした、となっている。船遊びは事実であり、また船中で
ヘンデルの組曲が演奏されたことも記録に残っている。1717年7月19日の「デイリー・
クーラント」紙は「国王はこの曲が大いにお気に召され、行き帰り併せて3回以上も
演奏を命ぜられた」と書いている。だが、この結構な伝説にとっては不幸なことに、
両者は1717年以前にすでに和解を遂げていた、と思われる。


ヘンデル(5)
グッキー (24)投稿日:2003年02月10日 (月) 22時16分 返信ボタン

 ヘンデルはバッハが生まれたのと同じ年、1685年の2月23日に、ハレ(中部ドイツ)で
生まれた。少年時代のことはほとんど知られていないが、幼時からオルガンをよく弾き、
10歳に満たぬうちにワイセンフェルス(ザクセン)のヨハン・アドルフ公爵の注目を
ひいたことはわかっている。ヘンデルは、ハレのルーテル派教会のオルガン奏者
フリードリッヒ・ツァッハウの許に送られ、オルガンを正式に学んだ。ツァッハウ以外の
教師についたことがあったかもしれないが、その名は知られていない。1702年までに
ヘンデルは、大聖堂のオルガニストに任ぜられた。が、彼は教会のオルガン奏者として
終わる人間ではなかった。早くから劇場にひかれ、1703年には欧州で最も有名かつ
活発なオペラの中心地の一つ、ハンブルクに出た。ここで彼は、若きドイツの作曲家
ヨハン・マッテゾン(1681〜1764)と親交を結び、また、作曲を本格的に始めた。
彼の生涯がほぼ終わりを告げたのも、このハンブルクにおいてだった。マッテゾンは
ヘンデル同様、強固な意志と粘り強さを兼ね備えた人物で、二人の青年はある論争をした。
 当時ハンブルクでは、マッテゾン作曲のオペラ『クレオパトラ』が上演中だった。
おまけにマッテゾンは、その中で主役の一つを自ら引き受けていたが、おそらくは
自らの多才をひけらかそうとしたのだろう、歌い終わるとオーケストラ・ピットに
降り、チェンバロの首席を弾いていたヘンデルに代わって演奏しようとした。が、
ヘンデルは押しのけられて黙っているような男ではなかった。口論ののち頭にきた
二人は外へ出て、剣を抜き合った。マッテゾンの突きはヘンデルの上着の金属ボタンに
当たり、剣は折れた。ほんの1センチでもホコ先がズレていたら・・・・・。それはともかく、
この事件を機に二人は仲直りし、1707年に作曲したヘンデルのオペラ**
『アルミーラ』では、マッテゾンがテノールの主役を演じた。
 同じ年、ヘンデルはローマへ出かけた。同地には三年滞在し「イル・サッソーネ」(ザクセン人)
と呼ばれ、例によって大きな印象を残した。イタリア滞在中のヘンデルについては、
ごく僅かしか知られていないが、逸話の類はいくつかある。言い伝えによると、
ヘンデルは、彼とちょうど同年生まれの作曲家で、鍵盤楽器用のソナタや練習曲を
数多く生んだことで知られるドメニコ・スカルラッティ――彼はこれら珠玉の小品を
550曲以上も書いた――と、チェンバロおよびオルガンの引き比べをした。会場は
オットボーニ枢機卿邸で、チェンバロは引き分け、オルガンではヘンデルの圧勝
だったという。
 メインウェアリングは「スカルラッティは相手の勝利を自ら宣言するとともに
“ヘンデルの演奏を聴くまではオルガンという楽器にこれほどの迫力があるとは
知らなかった”と率直に告白した」と書いている。二人の名演奏家が同じ曲を
演奏して、疲れ果てるまで技を競い合うことがなくなって、音楽界は何物かを
失った。プロイセン大王の前で行われたモーツァルトとクレメンティの競演は
引き分けに終わり、ベートーヴェンはアベ・ゲリネクをはじめとする挑戦者を
すべて斥けた。リストとタールベルクも、パリのベルジオジョーゾ王女のサロンで
腕比べをしている。


ヘンデル(4)
グッキー (23)投稿日:2003年02月09日 (日) 05時36分 返信ボタン

 旅行の経験が多く、多数の名士と接する機会も多かったヘンデルは、
円満な人柄だったに違いない。彼が絵画の良き鑑定家だったことはよく
知られている。彼はハレ大学に学んでおり、文学、哲学、芸術などについて、
ちゃんとした教育を受けたはずである。しかしヘンデルの秘密癖のために、
彼の教養の幅を探るには数々の推量を行わねばならない。彼の性生活に
ついても、頼りは推量だけである。彼は生涯独身を守り、女性との付き合いは
すべて他人に知らせなかった。若い頃、何人かのイタリアの歌手との仲を
噂されたことはあった。メインウェアリング著の伝記の一冊には「G.F.ヘンデルは、
愛する女性(単数)からの助言以外はすべて無視したが、彼の愛は概して
長続きせず、また常に自己の職業の範囲内にとどめられた」との書き込みが
ある。筆跡から推して、ジョージ三世(英国王として1760〜1820年在位)
のものとみられる。
 彼の活動から考えて、ヘンデルはすべての興行主がそうであるように、
ギャンブラーだったと思われる。彼の気短さは伝説的で、特に指示に従わぬ
歌手に対しては酷かった。このケースで最も有名なのは、ソプラノのフランチェスカ・
クッツォーニが、オペラ『オットーネ』の中のアリア『ファルサ・イマジネ』を
楽譜通り歌うことを拒否した時の話。自制心を失ったヘンデルは、彼女の腕を
掴むと、窓から放り出さんばかりの勢いでこう怒鳴った。「マダム、あんたが
本当の女悪魔だってことはわかってます。だが私はベールツェブーブ(魔王)
なんですゾ」
 ヘンデルは神を信じていたが、狂信的ではなかった。ホーキンスに対しては
「聖書に曲をつける」ことの喜びをもらしている。ヘンデルは大食漢で、
有名な漫画家ジョーゼフ・グーピーは、ブタの顔をしたヘンデルがワイン樽に
腰をかけ、食卓に山海の珍味を並べている絵を残している(ヘンデルが遺言の
中でグーピーに言及しなかったのは、この漫画のせいだろう)。ヘンデルは
上流社会へ自由に出入りした。彼は決して芸術至上主義の音楽家ではなかった
(いずれにせよ、当時、その種の芸術家がいたはずはないのだが・・・・・)。
彼はエンタテイナーとなることを決して嫌がらなかった。こんな愉快な話がある
――1734年4月12日、リッチ卿夫妻、シャフツベリー卿、ハンマー卿夫妻、
バーシヴァル夫妻らが出席したパーティーの席上、ヘンデルは午後7時から4時間も、
チェンバロを弾いたり、アマチュア歌手に伴奏をつけたりして、自らも大いに
楽しんだ、というのである。


ヘンデル(3)
グッキー (22)投稿日:2003年02月08日 (土) 01時25分 返信ボタン

 後世に残った少数のヘンデルの書簡は、いずれも公用または他人行儀のもので、
個人生活には全く触れていない。作曲家として、また興行家として、あるいは演奏家、
多彩な時期の最も色どり豊かな人物の一人として、公衆の目にさらされる機会が
多かった彼にとって、これは決して偶然のことではない。それはあたかも、ヘンデルに
隠すべき秘密があったかのような印象を与える。彼は自らのプライバシーを守り、
公的生活と私生活を画然と区別していたのだ。
 ヘンデルに関する情報の現在の主要な源は、ジョン・メインウェアリング師が
執筆した伝記である。出版はヘンデルの死の翌年の1760年で、一人の音楽家
について書かれた伝記としては最初のものである。このこと自体が、ヘンデルの
生存中の名声を証明している(バッハの伝記が初めて出版されたのは、死後52年を
経た1802年のことである)。だがメインウェアリングは、ヘンデルを直接知っていた
わけではない。そこで多くの情報を、ヘンデルの秘書ヨハン・クリストフ・シュミット
(英国名=ジャン・クリストファー・スミス)から引き出したが、そのため記述には
不正確な個所が多い。チャールズ・バーニー著『音楽史概観』(1776〜1789)
にもヘンデルの生活のスケッチや、各種の情報が多量に盛り込まれている。バーニーは
少なくともヘンデルの知人であり、ヘンデルの肉体的特徴に関する描写には
信用がおける。
 彼によれば、ヘンデルは大男で太っており(英国の別の音楽評論家サー・ジョン・ホーキンス
は「ヘンデルの太い足は湾曲していた」と書いている)、動作が鈍く「全体的印象は
いくぶん鈍重かつ不機嫌で、たまに微笑でも浮かべると、黒雲の間から太陽が姿を
見せるといった感じだった・・・・・。彼は立ち居振る舞い、会話の両面で衝動的、
乱暴かつ横柄だったが、意地悪や悪意とは全く無縁だった」という。これは公正な
評価だと思われる。偉大な作曲家ヘンデルは時に激情を爆発させたかもしれないが、
内に悪意を秘めていたはずはなく、人々との応待にも変わらぬ誠意をこめていた。
 バーニーによると、ヘンデルには「天性のウイットとユーモア」があり、英語に
なまりはあったものの、話上手だった。「もしも彼がスウィフトのような英文の
名手だったら、スウィフトに劣らぬほど多くの名文句を後世に残していただろう」と、
バーニーは書いている。ハンブルク時代のヘンデルと極めて親しかった当時一流の
作曲家ヨハン・マッテゾンも、ヘンデルのユーモアの天分を認めている。ヘンデルは
ある時「五つまで勘定できないかのようなふりをしてみせた・・・・・。真面目くさった
人々の腹を抱えさせて、自分はクスリともしないのが彼の特徴だった」と。
 ヘンデルはこの平衡感覚を晩年まで保ち、自身の肉体的苦痛までも冗談のタネに
した。彼は1752年(67歳)に視力を失い、その後も作曲とオルガン演奏を続けたが、
ある時、かかりつけの医師サミュエル・シャープが「ジョン・スタンレーをあなたの
コンサートの一員に加えてみたら・・・・・」と提案した。スタンレーは盲目の有名な
オルガン奏者だった。ヘンデルはそれを聞くと高笑いして「シャープ先生、あなたは
聖書を読んだことがないんですか?“盲人、盲人の手を引かば、二人はともに穴に落ちん”
と書いてあるじゃないですか」と答えたという。


ヘンデル(2)
グッキー (21)投稿日:2003年02月06日 (木) 21時55分 返信ボタン

 ヘンデルはデビュー公演の成功でペースをつかみ、以来多年にわたり、
イタリア語によるオペラを上演し続けた。彼に立ち向かう作曲家はいずれも
長続きしなかった。ヘンデルはイタリア・オペラのブームを生み、その
副産物として大きな富を築いた。その衝撃は驚くほどだった。ゲイはこの
ブームについて、極めて苦々し気にスウィフトにあて書いている。
 「去勢された男か、イタリアの女性でない限り“私が歌いましょう”とは
言えぬ世の中になりました。あなたの頃の詩がそうだったように、今や誰も
彼もが歌について、あれやこれやと大いに批評し合っている始末です。
メロディーの区別もできない連中が、ヘンデル、ボノンチーニ(1670〜1747)、
アッティリオらのスタイルの違いを毎日のように口にしています。・・・・・ロンドンや
ウェストミンスターで交わされる上品な会話では、セネシーノが不世出の
偉人ということになっています」と。セネシーノ、本名フランチェスコ・ベルナルディは
当時のロンドンで活躍した、有名な「カストラート(去勢)」歌手の一人だった。
「カストラート」については後に詳述する。
 民衆と社会はこぞってヘンデルのオペラを支持したが、新聞、雑誌の中には
彼を攻撃するものもあった。にもかかわらず、最も教養ある英国民、ひいては
欧州諸国民はヘンデルを史上最大の音楽家とみなした。在世中の彼に対する
讃辞はあり余るほどだった。「ハノーバーからやってきたヘンデルは、おそらくは
オルフェウス以来、最も豊かな音楽の才能に恵まれた天才である」――と、
パーシヴァル子爵は1731年8月31日の日記に書いた。『マノン・レスコー』の
著者アントワーヌ・プレヴォーは『正と反』(1733年)の中で、ヘンデルについて
「どのような芸術の分野であれ、これほど多産で、しかも完全な作品を作り続けてきた
人物は他にいない」と称賛した。
 〔パーシヴァル子爵は、綴り方が今より自由で制約の少なかった時代に
多くの人がしたように、発音通りに言葉を表記している(HENDELと書いてある)。
ヘンデル(ドイツ語ではHÄNDELと書く)は英国に定住してからは、Äのウムラオトを
つけなかったが(HANDELと署名した)、発音は以前ヘンデルで、そのために
しばしばこう綴られてきた〕
 パーシヴァルやプレヴォーの評価はほんの一例に過ぎない。存命中から
これほど大きな讃辞を呈され、また書き記された作曲家はほとんどいない。
 しかも歴史に名を残す有名作曲家のうち、フランツ・シューベルトを除けば、
ヘンデルほど個人的情報に乏しい者は皆無である。オットー・エーリッヒ・ドイッチュの
大著『ヘンデル――記録に見るその生涯』をひもとけば明らかなように、ヘンデルに
関する資料はいくらでもある。が、自分自身について彼ほど秘密を守った作曲家は
他にない。ヘンデルの年表には欠落がある。特にイタリア滞在中の時期に。彼が
どれほどの財産を蓄えたか、その作品が生涯を通じてどう受けとめられたかは
わかっているが、彼が何を考えていたかについては、ほとんど何も知られていない。


ヘンデル(1)
グッキー (20)投稿日:2003年02月05日 (水) 05時56分 返信ボタン

 バッハが「田舎者」で、祖国ドイツを一度も離れなかったのに対し、
同時代に活躍したゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデル(英国ではジョージ・
フレデリック・ヘンデルと呼ばれた)はコスモポリタンで、世界各国を
歩き回る独立独歩の人であった。彼は職業音楽家としても成功した最初の
偉大な作曲家の一人であった。大男で元気者、なまりの強い英語を話す
帰化英国人、爆発的な気象の持ち主であると同時に、心やさしく、寛大な
博愛主義者、音楽興行で財産を作り、また失った男、レンブラントの名画を
含む美術品収集家、オルガンとチェンバロでは当時最大の演奏家の一人、
神を信じるのと同じ純粋さで人生にも対した男――それがヘンデルだった。
 ヘンデルは1710年、25歳の時に初めてロンドンを訪れ、市民に強烈な
印象を与えた。それは当時、決して容易なことではなかった。時まさに、大した
時代だったのである。その頃のロンドンには、才人、文士、奇人、ダンディー、
背教者、詩人、エッセイスト、政治家、宮廷関係者が群がり集まっていて、欧州の
文化の一大中心地であった。それはある種の閉鎖社会で、ゴシップが乱れ飛ぶ
場所でもあった。ジョン・ゲイ(詩人、劇作家)がアレクサンダー・ポープ(詩人)
に手紙を書くと、その情報がアーバスノット博士(諷刺作家、医師)に中継され、
そこからジョナサン・スウィフト(作家)に伝わるという感じだった。ジョーゼフ・
アディソンとリチャード・スティールが編集する二つの新聞「タトラー」と
「スペクテイター」がロンドンっ子にとって、またとない情報源だった。数学の
概念の多くをくつがえし、数々の新説を導入して、科学者を数世代にわたり
きりきり舞いさせたサー・アイザック・ニュートンは、宗教について思い悩んで
いた。数多くの推量、中傷、噂がロンドンの辻々を飛び交っていた。
 隠し事など特に宮廷においてはありえなかった。ハーヴェイ卿がいつもながらの
スキャンダルを起こすとか、クイーンズベリー公爵夫人の侍女の一人が王室の一員と
いちゃつくとか、S卿がB夫人の寝室からこっそり抜け出すところを目撃される
といった事件があれば、噂はアッという間に全ロンドンに広まった。しかしウイットと
ゴシップの吹聴は別物だった。スウィフトはかつて、サー・チャールズ・ウォーガンに
書き送った。「ご存じのように、ポープとゲイと私は人々を楽しませ賢くするために、
あらゆる努力を払っております。ならず者とバカを除けば敵はおりません」と。
 ザクセン生まれのたくましい異邦人ヘンデルが飛び込んだのは、こうした社会だった。
世間知らずで横柄な彼は早速、アディソンやスティールを敵にまわすことになった。
アディソンの立場は全く公平というわけにはいかなかった。ヘンデル到着の直前、
アディソンはオペラ用のリブレット(台本)を書き、トマス・クレイトンなる無名の
作曲家に音楽をつけさせた。『ロザモンド』と題されたこの抒情的なオペラの上演は、
見るも無残な失敗に終わった。ちょうど「英語によるオペラ」の一派を確立しようと
目論んでいたアディソンが自作の失敗に怒り狂っていた時期に、ヘンデルのロンドン・
デビュー公演が大成功を収め、しかもそれがイタリア語によるリブレットであったため、
彼は直ちにヘンデル批判の猛攻撃を開始した。イタリア・オペラに対する「スペクテイター」
紙の論評ほど荒唐無稽で、英国の論争形式に悪しき寄与をしたものは他にない。


バッハ(18)
グッキー (19)投稿日:2003年02月04日 (火) 12時24分 返信ボタン

 これら四人のバッハの息子(うち二人はヨーロッパ全土で有名だった)は、
老バッハの記憶を新鮮に保つことを助けた。バッハの死後の評価のことを論じる時、
いくつかの事柄を銘記しなければならない。公開演奏会という制度は生まれたばかり
であった。自分の作品を発表したいと願う作曲家は、使える会場ならどんな所でも
使って――貴族のサロンであろうと、舞踏場や歌劇場であろうと、その他何でも
(本格的なコンサート・ホールなどほとんどなかったのだから)――自分自身の
努力で演奏会を開くのが普通であった。他人の作品を演奏するコンサート・アーチスト
という概念は、もっとあとになって生まれたのである。ロマン派時代までの音楽は
多分に現代(その時代の)芸術であり、過去の作品ではなく当時作曲された作品に
関心が集中していた。過去の音楽は顧みられなかった。とにかく、過去の音楽を
聴いたり研究したりすることは、極めて困難であった。楽譜はみつからないし、
演奏様式も存在しないと同然であった。
 それでもバッハの音楽の力は偉大であり、多くの職業音楽家には知られていた。
バッハの音楽が慣例を破って、ライプチヒの演奏曲目に残っているという事態まで
起こった。バッハの弟子で、彼の後継者として1756年から1789年まで、
聖トマス教会のカントルであったヨハン・フリードリッヒ・ドーレスは、礼拝の際、
引き続きバッハの音楽を演奏した。ドーレスはまた、モーツァルトにバッハの
楽譜を見せ、モーツァルトは夢中になった。彼は楽譜を研究し、編曲をやり、
バッハの対位法に大きく影響された。
 ウィーンのゴットフリート・ファン・スウィーテン男爵は“バッハ教”とでもいうべきもの
のリーダーであった。彼はモーツァルトとハイドンにバッハの楽譜を見せ、音楽会を
催してバッハの作品を演奏した。ハイドンは『平均律クラビーア曲集』と『ロ短調ミサ曲』
を熟知しており、楽譜を持っていた。ベートーヴェンは『平均律クラビーア曲集』で
育てられた。英国のオルガン奏者兼作曲家のサミュエル・ウェズリー(1766〜1837)は、
メンデルスゾーンが『マタイ受難曲』を再上演するずっと以前に、バッハを研究し、
演奏し、バッハの普及に努力していた。そしてウェズリーをバッハに紹介したのは、
献身的なアマチュアとプロの混成グループであった。
 作曲家兼ピアニストのヨハン・バプティスト・クラマー(1771〜1858)は、
1800年以前にバッハ作品を公開演奏しており、彼に続いてアレキダンダー・ベーリ、
ヨゼフ・リパフスキ、ジョン・フィールドらのピアニストがバッハに傾倒した。
18世紀後期および19世紀初期のヨーロッパの音楽雑誌や音楽書に目を通す労を
いとわない者は、「名高いバッハ」に関して述べてある個所が無数にあることを
知ることができる。多くの音楽史家は、バッハが死後忘れ去られ、メンデルスゾーンが
1829年に『マタイ受難曲』を再上演して初めて、再発見されたと述べているが、
これは作り話である。バッハは、少しも忘れられていなかったのである。彼は
実に大きな影を残していた。おそらくヘンデルや、現代では忘れられた人気オペラの
作曲家ヨハン・アドルフ・ハッセ(1699〜1783)ほどではなかったかも
しれないが、それでも大きかった。彼が「完全に無視されていた」という作り話は、
このへんで終わりにするべきである。
 バッハの息子たちを最後に、この音楽上の偉大な流れは枯渇した。ヨハン・セバスチャンの
直系の男子子孫の最後は、ウィルヘルム・フリードリッヒ・エルンスト(1759〜1845)
であり、彼は「ビュッケブルクのバッハ」によるバッハの孫である。バッハの血族は
今も健在である。マイニンゲン、オールドルーフ分家のバッハたちは今日でも存在し、
1937年になって「チューリンゲン・バッハ家族協会」を設立した。だが、
20世紀のバッハ家で職業音楽家は一人もいない。


バッハ(17)
グッキー (18)投稿日:2003年02月03日 (月) 14時49分 返信ボタン

 バッハの死後、彼自身および少数の作品は忘れられなかったが、作品の大半は
処分された。彼が死後約75年間無視されたということがバッハ伝記家の信仰の
ようになっているが、これは全く事実に反する。一つには息子たちが、父に対して
愛憎相半ばする感情をもちながらも(父の第二の妻に対してもそうであった。
彼らはアンナ・マグダレーナを餓死寸前に追いやり、死後は貧民墓地に埋めた)、
父の音楽の普及に努力したからである。ヨハン・クリスチャンは父を「旧弊人」
と呼んだかもしれないが、バッハの音楽を当時の多くの演奏家に紹介したのは
彼であった。カール・フィリップ・エマヌエルは、バッハ作品の旧式な内容に
若干当惑したもようで『フーガの技法』の楽譜銅版を処分してしまったが、それでも
最初のバッハ伝(1802年)を書いたヨハン・ニコラウス・フォルケルに
貴重な資料を提供した。
 バッハの息子たちは皆、父の名前と名声を広めた。彼らは皆、予期された
ように、音楽の道を進んだ。「全部、生まれながらの音楽家だ」と父は誇らしげ
に息子のことを語った。数人は若死にし、一人は精神薄弱だったが、四人は
立派な経歴を歩んだ。
 ウィルヘルム・フリーデマン(1710〜1784)はハレへ行き、次に
放浪生活を始め、最後にベルリンに落ち着いた。彼は変わり者で世間に適応せず、
大酒飲みだったといわれる。彼は非常な天分を持ち、父親の誇りだったが、目的を
果たさずに死んだ。カール・フィリップ・エマヌエル(1714〜1788)は28年間、
フリードリッヒ大王の宮廷につとめ、父を上回る大きな名声を獲得した。クラビーア
奏者、作曲家、教師で、1768年にハンブルクでテレマンのあとを継いで教会
音楽監督となった。作曲家としてのカール・エマヌエルは、当時ヨーロッパを
席巻していた新スタイルを代表していた。これは対位法によらない上品なスチール・
ギャランで、マンハイム派作曲家が創始し、ハイドン、モーツァルトへの道を開いた。
おかしな話だが、彼は左ききのためバイオリンが弾けなかった。
 「ビュッケブルクのバッハ」として知られるヨハン・クリストフ・バッハ(1732〜1795)は、
18歳の時から死ぬまで同市でつとめ、父の伝統を引き継いだ。最期の一人は
「ロンドンのバッハ」こと、ヨハン・クリスチャン(1735〜1782)で、一家のうち
数少ない旅行家の彼はイタリアに行って、自らジョヴァンニ・バッハを名乗り、
カトリック教に改宗した。彼の父はこれを好まなかったと思われる。ついで
1762年に英国に行き、同地でジョン・バッハとして知られた。社会的にも
芸術的にも大成功し、オペラの作曲、ピアノのリサイタル、オーケストラの指揮、
音楽教授、など何でも手がけ、少年モーツァルトがロンドンを訪れた時は良き
助言者となり、ついには破産して多くの借財を残して死んだ。彼もまた、スチール・
ギャランを代表していた。


バッハ(16)
グッキー (17)投稿日:2003年01月31日 (金) 23時53分 返信ボタン

 バッハは(消失したものを含めて)多量の教会音楽を作曲したが、モテットや
カンタータ、ミサ曲や受難曲は宗教的感情に満ち溢れており、これらを完全に
理解するには、バッハと同様の宗教的基礎、感情と背景そのものを持つことを
必要とする。どんな芸術を鑑賞するにしても、鑑賞者が作者の精神過程と一体化
することがカギになる。一体化が強ければ強いほど、鑑賞力は深まる。だれでも、
教会カンタータ第4番『キリストは死のとりことなられても』や『ロ短調ミサ』の
明確な意味は理解できる。しかし精神的託宣や、その表れである実際の宗教的
行事との関連において音楽が持つ微妙なニュアンスは、バッハ時代の教会や
精神生活と一体化できる人でなければ、完全には理解できない。
 またこのような指摘は、必ずしもバッハの教会音楽にだけ限るのではない。
『フーガの技法』のような作品は、自分が対位法で苦闘し、従ってバッハの
悪魔の仕業とも言えそうな見事な問題解決法を認識できる人の方が、楽譜も
読めない人よりは、ずっとよく理解できる。しかし少なくとも世俗的音楽は、
もっと容易に理解できる。それは抽象的であり、バッハの内面の過程に参与
しつつ、彼の思考の跡をたどって行くことは、音楽の与えてくれる知的、情緒的
喜びの一つである。
 20世紀においてバッハの音楽が提起する大問題の一つは、演奏慣習である。
当然ながら、バッハ時代そのままの演奏を再現することは不可能である。あまりに
多くの要因が変化してしまったし、どんな時代にも固有の演奏スタイルが存在する
からだ。ロマン派は、他のすべての場合と同様に、バッハに対しても非常に自由な
態度を取り、自分らの考え通りにバッハの作品を演奏した。ロマン派の演奏慣習は
現代まで踏襲され、この問題に真剣に取り組む努力が始まったのは、やっと、この
数十年来である。熱心な音楽史研究のおかげで、今の音楽家たちは数世代前の
人たちより、バッハの演奏様式の特徴について遥かに多くのことを知っている。
しかし、それでもまだ十分ではない。ロマン派の演奏慣習を是正しようとして、
若い世代の芸術家たちが公認の版本を用い、“正統派”たるべく比較的小さな
集団で、バッハを機械的な厳密さで演奏し、歌い、指揮するようになった。だが
難点は、こうした音楽では生気が失われることである。人間性、優雅さ、独自の
流儀、趣味を奪われたバッハになってしまうのである。
 バッハについて、われわれが一つ知っていることがあるとすれば、それはバッハが
情熱的な人間であり、また情熱的な演奏家であったということである。疑いもなく
彼は、現代の演奏慣習が許容するよりは、遥かに大胆、自由かつ自然に自分の作品を
演奏し指揮した。バッハ自身が弟子のヨハン・ゴットヒルフ・ツィーグラーに語った
ところでは、オルガン奏者は単に音を弾くだけでなく、その作品の意味、感情に
訴える点など“情緒”を表現しなければならない。ずいぶん皮肉なことには、バカに
されていたロマン派の方が結局は、バッハの音楽についての現代の学識には欠けて
いるとはいえ、厳密で融通のきかない今日の音楽家より、本能的にバッハの基本的
スタイルに近かったということになるかもしれない。




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