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ハイドン(3)
グッキー (50)投稿日:2003年03月31日 (月) 14時21分 返信ボタン

 しかし仮にハイドンが、モーツァルトと同年齢の36歳で死んでいたら、彼は
今日ほとんど知られていないだろう。彼は直線コースを徐々に進んで成熟した、
大器晩成型の人物であった。幼時から極めて豊かな才能に恵まれていたものの、
いわゆる神童ではなく、モーツァルト、シューベルト、メンデルスゾーンのように
一気呵成に作曲することはなかった。「私は速筆家ではなく、細心に勤勉に作曲した」
と彼は示唆している。彼の経歴は徐々に成長するタイプであり、実際の仕事を進めながら
収得した技法をわが物としていった。彼が作曲活動にはいった当時は、新音楽、すなわち
スチール・ギャラン(優美な様式)の音楽が生まれたばかりで、ハイドンはこれを
立派に組み立てる仕事の一切を取りしきった。彼が「交響楽の父」と呼ばれるのは
不当ではないが、同様に彼を「弦楽四重奏曲の父」「ソナタ形式の父」と呼んでも、
差し支えはないだろう。
 フランツ・ヨゼフ・ハイドンは1732年3月31日、オーストリア・ハンガリー
国境線上にある町ローラウに生まれた。以前、ハイドン家はクロアチア人であると
いわれたが、近代の研究の結果、オーストリア人であることが実証された。ヨゼフの父、
マチアス・ハイドンは車大工であった。少年ハイドンは百姓の子供同然に育ったが、
幼時から異常な音楽的才能を発揮した。5歳のヨゼフが左手に棒切れを持って、
バイオリンを弾く真似をしたという楽しい物語が残っている。両親は彼が牧師に
なることを望み、このためヨゼフは6歳になるかならないかの時、いとこに唆されて
近隣のハインブルクにやられた。ハインブルクで彼は読み書きを習い、教義問答集を
勉強し、音楽の才能が認められて木管と弦楽器のレッスンを受けた。ハイドン自身が
自叙伝の中で「わが全能の神は、極めて豊かな音楽的天分を私に授けたので、6歳の
時でも私は教会合唱隊で大人のように直立してミサ曲を歌い、クラビーアとバイオリンを
若干弾くことができた」と書いている。
 しかし、事がすべて容易に運んだのではない。ハイドンの幼時は惨めであり、後年の
回想によると「食事を与えられるよりは、ムチで打たれることの方が多かった」。彼は
大部分、自習しなければならなかった。「ちゃんとした先生に習ったことがない。
歌唱や器楽演奏、のちほどの作曲と、何でも私は実際面から出発した。勉強するより
曲を聴く方が多かったが、当時最高の各種の音楽を聴いた。・・・・・こうして徐々に
私の知識と能力は成長していった」
 ハイドンが“最上の音楽”を聴いたのはウィーンであった。8歳の時、彼は
聖シュテファン教会の合唱隊にはいり、児童スターの一人になった。1749年に
声変わりしたため解雇された。伝説によると、解雇を早めたのは子供っぽいいたずらの
ためだったという。彼は同僚学生のお下げ髪を切り落としたことになっている。当時
ハイドンは17歳で、教会を去る際の全財産は古シャツ3枚と、擦り切れた上着だけ
であった。このあと新しく児童スターとなったのは、弟のミヒャエル(1737〜1806)
であった。ミヒャエルは大物になると予言され、作曲を除くすべての面で、ヨゼフに
まさる才能を持っていたようである。実際に彼は立派な経歴を歩み、ザルツブルクでは
モーツァルトの後を継いで、大司教オーケストラの指揮者となった。また、彼は大量の
教会音楽を作曲したが、どの作品も今日、常備演奏曲目表の中には入っていない。


ハイドン(2)
グッキー (49)投稿日:2003年03月25日 (火) 07時03分 返信ボタン

 ハイドンは、芸術家が貴族の愛顧を受けて生活する時代に生きた。彼が
エステルハージ家に勤務した時(そして彼は、人生の大半をエステルハージ家
で過ごすことになるのだが)、自分が主人の紋章を付けた服を着、小間使いと
一緒に食事をする従僕であるという立場に、全然疑問をはさまなかった。しかも、
この立場は彼の強い独立心を決して妨げなかった。彼は格別貴族に感銘を受けず、
俗物ではなかったから、有名人との接触を求めなかった。劣等感を持っていたとか、
身のほどを知っていたとか、いうのではない。全然関心がなかったためであり、
自分の足でしっかり大地を踏みしめていたからであった。
 「私は皇帝、国王、大公と会談し、いろいろお世辞の言葉をもらった。だが、
こうした人々と親しく付き合うよりは、自分と同じ階級の人々の方がよい」。
主として彼は音楽家か音楽愛好家にしか関心がなかった。彼は全く非政治的で、
他人に煩わされないで自分の仕事ができることを望んだ。自分の仕事の分野では、
彼は自分の優越性を十分知っており、ためらいなく権限を行使した。
 彼の主人の一人、ニコラス候2世がハイドンのリハーサルに干渉したことがあった。
ハイドンはこのお偉方をたたき出す寸前まできた。「閣下、これは私の領分です」。
ニコラス王子は怒り狂って退場したが、この有名な楽長を訓戒しようとはしなかった、
と伝えられている。もし訓戒していたら、ハイドンは辞任していたかもしれない。
偉大なハイドンを用いたいと願っていた金持ちの王侯貴族は、いくらでもいたからだ。
ハイドンは出版業者に対しても同様に独立的であった。彼は1782年、アルタリア社
と紛争を起こし、事態が満足な解決を見なくなると、無愛想な手紙を送った。「それなら
事を片付けて、私に金か楽譜か、どちらかを送ってくれ給え」
 しかしハイドンには、せせこましさやケチなところはなかった。彼は大きな人間であり、
安定した人物であり、競争者のことを決して気にとめなかった。彼はモーツァルトを
心から称讃しただけでなく、早くも1793年に、自分がしばらく教えたベートーヴェン
の才能を知り尽くし、ケルン選帝侯に対し「ベートーヴェンはやがて、ヨーロッパ最大の
作曲家の一人になるでしょう・・・・・」という極めて好意的な推薦状を書いている。
 要するにハイドンは適応性の豊かな人物であり、これは彼の音楽作品に表れている。
彼の作品ほど、ノイローゼ的要素のない音楽を考えるのはむずかしい(おそらく、
この点で匹敵する唯一の音楽作品は、ドヴォルザークの音楽であろう)。ハイドンの
音楽は常に正気で健康である。モーツァルトほどの情熱はないかもしれないが、ハイドンの
音楽はモーツァルトの最高の作品には決して及ばなかったにせよ、一貫してモーツァルトと
同じか、それ以上の高い水準にあった、と立証することは可能である。1780年頃から
死に至るまでの間に、ハイドンが作った交響曲、四重奏曲、ミサ、オラトリオで、
傑作と呼ばれない作品はほとんど一つもない。ハイドンの多産性には、息がとまるほどである。


ハイドン(1)
グッキー (48)投稿日:2003年03月21日 (金) 13時06分 返信ボタン

 フランツ・ヨゼフ・ハイドンが最も名声の高い音楽人であった時代は、
自らの文明、論理、感情の抑制、礼儀を誇りとした時代であった。
貴族政治の黄金時代であり、理性が人間と社会の機能を導くことができると、
哲学者が本気で信じていた時代であった。この世紀(18世紀)の終わり
頃には流血と革命が訪れ、次いで社会と芸術家の役割について新たな考え方が
生まれた。しかし18世紀にあっては、若い知識人や芸術家が固定観念に
とらわれ、自分たちのユニークな才能を自讃したり、自分たちの理想、苦しみ、
願望を大げさにひけらかすといったことはなかった。こうした役割は次の
19世紀の若いロマン派に任せられた。18世紀の後半は、万事に釣り合い
を求めた時代であった。音楽においてこの時代は、フーガや、巨大で複雑な
バロック形式を好まず、良いメロディーの音楽、単音的音楽、人々を楽しませ、
知性にあまり大きな負担をかけない音楽を要求した。
 ヨゼフ・ハイドンはこの時代を代表する作曲家であり、最も尊敬され、
民衆の好みに最も近かった。彼は典型的な古典主義作曲家であり、1732年から
1809年に至る長い人生の間に、新しい音楽思想と共に成長し、いかなる
人にもまして新しい音楽思想を形成した。彼は彼なりに代表的な啓蒙時代の
人物であり、宗教的で大胆で知的で冒険的であったとはいえ、いずれも度を
過ごさず、(遥かに抑圧が強く危険で反逆的であった人物の)モーツァルトに比べ、
それほど革命的ではなかった。ハイドンに関しては、万事が知的にも情緒的にも
釣り合いを保っていたのである。
 体格的には、彼は魅力的ではなかった。背が低くて色が黒く、顔には天然痘の
跡があり、足は胴に比べて短すぎた。鼻には鼻茸があって全体の形を歪め、
彼はこれを気にしていたようであった。有名人ハイドン先生は、自分の肖像画を
描いてほしいと依頼したことがなかった。しかし彼は、付き合えば大変良い人
だったに違いない。並はずれて優しく、親切な人柄で、どんな時にもほとんど
敵を作ったことはなかった。癇癪を起こさず、勤勉で寛大で大いにユーモアに
富み、恋愛問題は紳士として処理し、目を悪くしたのと、リューマチを除いては、
死の直前まで健康に恵まれていた。
 教育程度はさほどではなかった形跡があるし、あまり本を読まなかったが、
良識をそなえた実際的な人物であった。彼は率直で正直であった。モーツァルトの
名前が話題にのぼったとき「私の才能について友人たちがお世辞をいうが、
彼(モーツァルト)の方が私より遥かに上だ」とハイドンは語った。
 彼はおしゃれを好んだ。ボヘミアの音楽家ヨハン・ウェンツェル・トマシェックは、
晩年のハイドンが客を迎えたときの模様を記している。
――「ハイドンは派手に着かざって、肘掛け椅子に座っていた。横髪のついた
カツラには粉おしろいを振りかけ、金の留め金のついた白い首バンドを着用し、
厚い絹で作った白地のチョッキは、細かな刺繍をほどこしてあり、チョッキの
真ん中には襞飾りが光っていた。上衣は茶色で、刺繍付きカフスが目立った。
黒い絹製半ズボンと白い絹製タイツをはき、靴には大きな銀の留め金が足の甲の
ところまで続いていた。彼のそばの小さなテーブルには、白い仔羊の手袋が
置いてあった」


グルック(10)
グッキー (47)投稿日:2003年03月19日 (水) 00時32分 返信ボタン

 他の作曲家たちはグルックの成功を羨み、同時に何となく彼を怖がっていた。
彼は敵に回すと危険な人物だった。レオポルト・モーツァルトは自分の息子に、
グルックには近づくな、と言った。モーツァルトが1778年パリを訪れた時、
二人は出会った。のちにウォルフガンク(モーツァルト)とグルックはウィーンで
再び会ったが、モーツァルトはグルックを「偉い人物」と呼んだ。グルックが
ウィーンの宮廷作曲家の時は、年棒2千フロリンだったのに対し、グルックの
後任となったモーツァルトは8百グルデンという、端金(はしたがね)しか貰えなかった。
これは役人たちが二人の地位をどのように見ていたかを示すものである。常に疑い深く、
どのテーブルクロスの下にも曲者が隠れていると信じ込んでいたレオポルト・モーツァルトは、
グルックがウォルフガンクの才能を妬んでおり、自分の息子を陥れる陰謀の先頭に
立っていると確信していた。
 グルックの影響は、ごく稀にしかモーツァルトの音楽には現れていない。それは
主として、モーツァルトのオペラ・セリア(正歌劇)『イドメネオ』に顕著に出ている。
時おり、グルックの影響を示唆するメロディーが聴かれる作品があることはある。
例えば『ニ長調フルート四重奏曲』の緩徐楽章のメロディーが、それである。グルックの
精神はスポンティーニ、ケルビーニの諸作品、それに部分的にではあるが、ベルリオーズの
オペラ『トロイ人』の古典主義の中にうかがわれる。
 ドビュッシーはベルリオーズのオペラにこの影響力を認め、「彼が熱愛したグルックを
思い起こす」と述べている。ベルリオーズがグルックを崇拝していたのは事実で、学生時代、
彼は長い時間をかけてグルックのオペラの写譜や暗誦に努めた。「わがオリンパス山頂の
諸神のうち、ジュピターはグルックであった」と彼は述べた。オペラ座ではベルリオーズは、
指揮者がグルックのオペラに手を入れたり、楽譜から離れたりすると大声で非難する
監視役であった。
 ベルリオーズ以後、ヨーロッパの音楽にはグルックの直接の影響はほとんど発見できない。
ロマンチックで華美な色彩と、古典主義者グルックの純白色とは調和しなかった。近代の
音楽学者は、グルックに対し、ある時代の始まりというよりは終わりを代表する作曲家
である、と評価する傾向が強い。代表的な意見はドナルド・グラウトの『オペラ小史』の中の
「グルックはヘンデルと同様、一時代の始まりでなく終わりである。ヘンデルがバロック・
オペラについて成したように、グルックはまじめなオペラの古典主義を集大成している」
という要約である。
 しかし、グルックと彼の影響力は、それだけにとどまらない。彼は音楽劇としての
オペラの針路をさだめ、オペラは歌、歌詞、演技、舞踊、舞台を、それぞれほぼ同様の
割合で結合した総合芸術であると規定した。こうした役割を果たしたグルックは、
まさしくリヒャルト・ワーグナーの精神的な先祖なのである。


「レクイエム」
グッキー (43)投稿日:2003年03月16日 (日) 08時25分 返信ボタン

[389]レクイエム  投稿者:おっくす  投稿日:2003/03/16(日) 03:36:05 [返信]
I P:210.128.17.139
新宿文化センターで、都響の「ジュピター」と
「レクイエム」のモーツァルトプログラムを聴きました。
意識していなかったのですが、ホールに入り、
チケットをよくよく見ると、なんと最前列のど真ん中!。
生まれてこの方、ずいぶんコンサートへは行っていると
思いますが、最前列中央は初めてで、落ち着かない
ことおびただしかったです(笑)。が、キュートな
幸田浩子さんと林美智子さんを間近で拝見できたのは
嬉しく、いつものお二人らしい丹念な歌唱だったと思います。
7月の「騎士」がますます楽しみです。


/グッキー (44)投稿日 : 2003年03月16日 (日) 08時37分

幸田浩子さんと、林美智子さんですか!
それはなかなか楽しめたことと思います。
最前列のど真ん中は、できれば勘弁してほしいです。
「ばらの騎士」のチケットもそろそろ買わないとだめですね。

□すいません!/おっくす (45)投稿日 : 2003年03月16日 (日) 16時51分

昨日は「レクイエム」の後、友人と
新宿でしこたま飲み、ヨレヨレで帰宅して
深く考えずにあっちに書き込んでしまいました。
ご迷惑をかけ、申し訳ありませんでした。
以後、気を付けます。

/グッキー (46)投稿日 : 2003年03月16日 (日) 22時10分

>昨日は「レクイエム」の後、友人と新宿でしこたま飲み、・・・

私は下戸ですが、さぞ酒が美味かったことでしょう。

>ご迷惑をかけ、申し訳ありませんでした。

いえいえ、あまり気にしないで下さい。

グルック(9)
グッキー (42)投稿日:2003年03月10日 (月) 13時40分 返信ボタン

 しかしグルックは本当はそうしたくなかったのだが、結局は自作オペラの上演準備を
いつも自分の手で行った。自作を他人の手にまかせたら、どんなことになるかを彼は
知っていたのである。『パリスとヘレナ』をドブラガンス公に献呈する時、彼はこう
指摘した。――「真実と完全を追求すればするほど、正確さと厳密さが一層必要になる」。
これを達成できるのは作曲家だけである、とグルックは正当な意見を述べたあと、次のように言う。
 「私のアリア『ケ・ファロ・センツァ・エウリディーチェ』がブラッチーニによって
サルタレーロ(イタリアの舞曲の一種)に変わるのには、ほとんど何も必要としません。
実際のところ、少し表現を変えれば、そうなってしまうのです。・・・・・従って、こうした
音楽の演奏に当たって作曲家が立ち会うことは、自然の働きに対する太陽の存在のように、
極めて必要であります。作曲家は生命と魂であり、彼がいなければ万事は混乱と暗黒であります」
 歌手に対しても、グルックは同様に無遠慮であり、やれ叫び回るとか、やれ風格と
音楽性に欠けるなどと、絶えず非難した。実際の話、強情で一匹狼で不手際なグルックは、
すべての人間にとってお荷物であった。彼はいつも間違ったことを言っているように
思われたが、あとで考えてみると、正しいことを言っていたのであった。社会現象としての
グルックは、彼の時代を遥かに先行していたのである。だからといって、友人が彼を
受け入れることは容易ではなかった。ある時、彼はベルサイユにいるフランス国王から
招待を受けた。パリへの帰途、彼はある公爵の家で夕食をとった。「国王の招待は、
うれしかったであろう」と公爵が尋ねたところ、グルックは「喜ばないといけない
のでしょう。だがパリでオペラをもう一作書くのなら、今度はそれを徴税吏に献呈したいと
思います。徴税吏なら、お世辞の代わりに金をくれるでしょうから」と不服そうに語った。
食卓を囲む客たちは大変驚き、公爵はすかさず話題を変えた。
 グルックの性質には、ベートーヴェンと酷似したところがあり、彼は自分の思うままに
生きた。パリ・オペラ座との交渉でも彼は一定の条件を、要請ではなく強要した。
――「私のパリ到着後、キャストの訓練のため少なくとも2ヶ月の期間を私に与えなければ
ならない。私は自分が必要と考える回数だけリハーサルを行う権限を持たねばならない。
代役の採用は禁止し、歌手の一人が病気になった場合に備えて、もう一つのオペラを
用意しておかねばならない。以上が私の要求する条件であり、これが満たされなければ、
私は『アルミード』を自分の慰めのために保管する」。このような“命令”を出して
問題を起こさなかった作曲家は、ほかにだれもいなかったであろう。
 グルックがオペラに革命を起こしたことは、彼の存命中に一般に認められていた。
1772年にグルックを訪れたバーニー博士は「シュヴァリエ(騎士)・グルックは
音楽を簡素化しつつある。・・・・・彼は自分の作品を清らかで厳粛なものにするため
全力を尽くしている」と述べた。また別のところで同博士は「彼の発明は、現存または既往の
どの作家の追随も許さないと私は信じる。とくに劇的な色彩と演劇効果に関して彼は
すぐれている」と論評している。バーニー博士はグルックの音楽と同じくらい、彼の人間に
圧倒された。博士がお別れの挨拶のためグルックを訪れた時のエピソードはこうだ。
――「私が着いたのは、かれこれ11時であった。それなのに真に偉大な天才にふさわしく、
彼はまだベッドの中にいた」


グルック(8)
グッキー (41)投稿日:2003年03月09日 (日) 07時05分 返信ボタン

 この間、グルックとピッチーニは友好関係を維持し続けた。ただ論争の終わり頃に、
関係がややギクシャクしたのは事実である。一般的な見方によると、結局勝ったのは
グルックであり、とくに彼が1777年に『アルミダ』、79年に『タウリス島のイフィゲニア』
を発表したあと、勝利は決定的になった。しかし外交的な一部の観戦者は、悲劇では
グルックが、そして喜劇ではピッチーニがそれぞれすぐれていると称して、事態をまるく
収めようとした。これも1779年に上演された『エコとナルシス』は、グルックの主要作品の
最後を飾るものであった。彼は1781年に心臓発作に襲われ、最後の数年間をウィーンで
過ごし、面会には応じたが作曲はもう手がけなかった。
 グルックはタフで他人をアゴで使う人間であり、すぐ癇癪玉を爆発させ、自己宣伝に
かけては天才ぶりを発揮した。パリの宮廷画家ヨハン・クリストフ・フォン・マンリッヒの
回想録には、グルックの風貌をよく伝えた個所がある。マンリッヒは初め、少しばかり
失望した。――「まるいカツラをかぶり、大きなオーバーを着たグルックに会う人は、
彼を著名人で創造の天才とは決して思わないだろう」。マンリッヒによれば、グルックは
中背より少し高く(当時の尺度から換算すれば、実際の身長は1メートル65センチ程度
だったとおもわれる)「ガッシリと強そうで男性的だが、肥満体ではない。頭は丸く、
顔面は赤く広くて、アバタのあとがある。目は小さくて奥目である」(チャールズ・バーニー
博士はこれに同意し、グルックは“体つきと容貌において下品であった”と述べている)。
 マンリッヒは、グルックの“興奮しやすい”性質と、時には礼を失するような彼の
痛烈な率直さに言及している。――「彼は物事をありのままの名前で呼び、このため
お世辞になれているパリジャンの敏感な耳を、一日に二十回も不愉快にさせた」。
フランス人はグルックを極めて不作法な人間と考えた。マンリッヒは続けて言う。
――「彼は大食漢で大酒飲みだった。金儲けと蓄財が好きなことを否定せず、エゴイスト
ぶりを遺憾なく発揮した。とくに食卓でひどくて、出された食物の一番よいところを
自分にくれと要求する光景がみられた」
 パリジャンは、グルックを不作法と考えたばかりではない。指揮者として彼は現代の
トスカニーニに相当し、短気でやかまし屋であった。演奏者たちは彼の前で縮み上がるか、
彼のオーケストラで演奏することを拒否した。彼は完全主義者であり、自分が満足するまで
同じ楽節を二十回も三十回も繰り返し演奏させた。ウィーンではグルックと演奏家の間の
敵意が極めて激しく、皇帝自身が介入しなければならないことが一度ならず起こった。
グルックが新作オペラの上演準備中、演奏者に通常の二倍の報酬をやるからと言って、
彼らの機嫌を取らねばならなかった、というゴシップがある。グルックは異常に敏感な
耳を持っていたに違いなく、当時では普通だったずさんな演奏は、彼を烈火のように
怒らせたのであった。オペラ作曲で二十ポンド受け取るのなら、オペラのリハーサルでは
二万ポンド支払ってくれなければ割に合わない、と彼は言った。『アウリス』のリハーサルを
見学したマンリッヒは、いったい状況はどんなものであったかを教えてくれる。
 「彼は狂人のように暴れ回った。今はバイオリンが悪い、次は木管が彼の楽想に
しかるべき表現を与えなかった、と怒鳴り散らす。指揮の最中、彼は突然中断して、
このように表現するのだと該当部分を自分で歌う。それから指揮をしばらく行うと、
また中止して肺が張り裂けるような大声でわめく。“これは出来そこないのヘッポコだ!”
私は彼の頭をめがけてバイオリンやその他の楽器が飛んで行く有様を、心の中で想像した・・・・・」


グルック(7)
グッキー (40)投稿日:2003年03月07日 (金) 13時29分 返信ボタン

 カルツァビージとグルックの第三の合作は、1770年の『パリスとヘレナ』
であった。そのあとグルックは、彼のオペラ作品に大きな好奇心を寄せていた
パリに注意を向けた。フランソワ・ジュ・ルーレ台本による『アウリスのイフィゲニア』は
1774年、パリのオペラ座で上演された。グルックはパリでマリー・アントワネットから
少なからぬ援助を受けた。彼女はウィーンで彼が歌唱指導をしていた時の教え子の一人であり、
彼は彼女の名前を平気で持ち出した。ある時彼は『イフィゲニア』のリハーサルに満足せず、
大声で叫んだ。――「私は王妃のところに行って、私のオペラの上演は不可能だと
申し上げる。それから馬車に乗って、真っ直ぐウィーンに帰ってしまうだろう」。
常にそうであるように、グルックのやり方が通った。『イフィゲニア』の数ヵ月後には、
カストラートの代わりにテノールが出る『オルフェオ』のフランス語版が上演された
(今日、一般に聴かれるのは、男声アルトの代わりにメゾ・ソプラノかアルトの出る
最初のイタリア語版である)。またグルックは『アルチェステ』のフランス語版も作った。
 グルックのパリ時代は、ニコロ・ピッチーニ(1728〜1800)との競争があって
活況を呈した。ピッチーニは熟練のイタリア作曲家で、1776年パリに来たが、
グルックの古典的厳しさよりは、伝統的オペラの方がよいと思う音楽ファンを
すぐさま引きつけた。大論戦が展開され、パリは1750年代初期の“ブフォン論争”の
際と同じくらい、今回の論戦を面白がった。前回の論戦もオペラと関係があった。
ジャン=バチスト・リュリ(1632〜1687)の古いフランス・オペラが
フランス・オペラの取るべき唯一の論理的な針路である、と一派が主張すれば、
他の派は、救済法はただ一つであり、イタリア・オペラによる道である、と同様に
熱烈に主張した。
 ルソーは後者の立場を支持し、フランス語は音楽的でなく、従ってフランス・オペラは
どうしても愚劣なものになる、と述べた。グルック=ピッチーニ論争に関しても、
パリっ子は同じ真剣さで取り組んだ。当時報じられたところによれば、初対面の二人が
開口一番「ところで、貴殿はグルック派なりや、それともピッチーニ派なりや」と
言う習わしだったという。折からアメリカ合衆国の弁務官としてパリにいたベンジャミン・
フランクリンは、両派の争いを面白がって聞いていた。
 フランクリンは次のように書いている。
 「両派は片やクーザン(蚊)、片やモシェット(小銃)という二人の外人音楽家の
優秀さについて激しく言い争っていた。彼らはまるで、これから先1ヶ月生きることを
確信するかのように、時間の短いことには無関心で、この論争に没頭していた。
“幸せな人々だ!諸君らはたしかに、賢明で正当で穏やかな政府のもとに暮らしている。
諸君らは訴えるべき苦情もなく、外国音楽の完全さと不完全さ以外には論争する問題もない”
と私は考えた」



グルック(6)
グッキー (39)投稿日:2003年03月04日 (火) 09時31分 返信ボタン

 1762年の『オルフェオ』初版はイタリア語で書かれ、主役のオルフェオを
歌うのは男性アルトであった。この楽譜で因襲的なのは、この点だけであった。
オペラの歴史のうえで、このように根本的な様式の変化が達成されたことはない、
と音楽学者は指摘してきた。はじめ『オルフェオ』はウィーンの聴衆には新しすぎたが、
熱心な愛好者を得るのに時間はかからなかった。グルックの次の改革オペラは、やはり
イタリア語で書かれた1767年の『アルチェステ』であった。このオペラの序文で、
グルックは自分の持論を十分に展開している。最も有名な音楽文献の一つとして、
これをほぼ完全な形でここに再現する価値がある。

 《私が『アルチェステ』の作曲に取りかかった時、歌手の誤った虚栄心か、
あるいは作曲家の過度の従順さによってオペラに入り込んだ、すべての悪習を
振り払おうと決意した。こうした悪習はあまりにも長い間、イタリア・オペラを
歪め、最も壮麗で最も美しい見せ場を、最も愚劣で退屈なものにしてしまった
のである。私は音楽を、表現とプロットの状況に従うことによって詩に奉仕する
という、その真の使命に応じるように制限することに努め、所作を中断したり、
無意味で余分な装飾で所作を圧迫することを避けた。そして私は、音楽でこれを
実現するに当たっては、絵画と同じ方法をとるべきであると信じた。絵画では、
光と影の取り合わせのよい対照による有効な色調が、正しく秩序のとれた画法に
影響を与える。この対象は人物の輪郭を変えることなく、人物に活気を吹き込む
役目を果たしている。
 《同じように私は、退屈なリトルネロ(繰り返し)を待ったり、自分の声に合う
母音を発声し続けるために一つの言葉の中途でとどまったり、歌手が長い楽節の中で
自分の美声をタップリ聴かせようとしたり、カデンツァを歌うために息を整える
時間を与える間オーケストラが休止したりするために、最も迫真的な対話場面で
演奏家にストップをかけることは望まない。アリアの最初の楽節をきまって四度
繰り返すために、おそらく最も情熱的で重要な言葉の含まれている第二楽節を
駆け足で過ぎたり、歌手がどのようにでも歌い分けられるのだとひけらかすのに
協力するため、歌詞の意味からみて終るべきでない個所で、アリアを終らせたり
することが私の義務であるとは考えなかった。要するに私は、これまで良識と理性が
無駄骨とは知りつつ反対を叫んできた、すべての悪習を廃止しようと努めたのである。
 《序曲は、これから展開される演技の性質を観客に教え、いわばその筋書きを
要約すべきであること、言葉の面白さと強さに応じた合奏楽器を取り入れること、
そして完全楽章を正当な理由なく破壊したり、所作の力と熱をかき乱すような形で、
対話の中のアリアとレシタティーボに際立った対照をつけないこと、などを私は考えた。
 《さらに私は、美しい単純さを求めるために最大限の努力を払うべきだと信じた。
私は明確さを犠牲にして困難さをみせびらかすことを避け、状況と表現によって
自然に示唆されない限り、新手法を明らかにするのは望ましくないと判断した。
そして一つの効果を作り出すために、原則を堂々と放棄してもかまわない、と
考えたことはなかった。
 《以上が私の主義主張である。幸運にも、私の考えは台本によって見事に高められた。
有名な著者はこの台本では、新たな劇的構想を練ったうえ、華美な語り口や不自然な
人物や高飛車で冷やかな説教をしりぞけ、心情あふれる言葉、強烈な情熱、興味深い
状況、無限に変化のある情景を作り出したのである。この作品の成功は私の持論の
正しさを証明した。このように程度の高い町がこの作品を一様に称讃していることは、
すべての芸術表現において簡素、真実、自然さが美の偉大な原理であることを明白に
したのである。・・・・・


グルック(5)
グッキー (38)投稿日:2003年03月03日 (月) 07時08分 返信ボタン

 グルックがまず手がけたことは、歌手にその分を守らせることであり、このため
彼は二つの方法をとった。第一は、歌手がオペラの始めから終わりまで、配役の
人物になり切るべきだと主張すること、第二はダ・カーポ・アリアを修正または廃止
することであった。歌手が第一楽節に戻って、馬鹿げた即興歌唱をすることは許されなく
なった。歌手は楽譜どおりに歌うよう指示を受け、当時最もウルサ型の指揮者であった
グルックは、歌手がこの規則をちゃんと守るのを確かめるため、自分で作曲したオペラは
いつも彼自身が指揮した。
 グルックの改革オペラでは、アリアがバロック・オペラに比べてはるかに短く、
レシタティーボの分量がずっと多くなった。レシタティーボは、歌うアリアとは
異なり、吟唱風の高揚したスピーチである。これは舞台の所作と登場人物の性格づけ
を高め、オペラの歌唱部分をつなぐ手段として用いられる。グルックは、伴奏をハープシコードで
演奏する一、二の和音に減らす、古いレシタティーボ・セッコを事実上廃止し、その代わり
として、込みいった器楽演奏をともなう、もっと表現の豊かなレシタティーボ・ストラメンタート
を採用した。彼は序曲を劇の一部とする形式を確立し、リアルな感情表現や性格展開のために
努力し、完全なドラマの一貫性を達成しようと努めた。
 以上すべては、オペラ作曲法としては新しいものであった。グルックは1773年の
メルキュール・ド・フランス誌への手紙の中で、自分のオペラ作法を手際よく要約している。
――「自然を模倣することは、すべての芸術家が自身に設定すべき当然の目標である。
私もこれを達成しようと努力している。私の音楽作品はできるだけ単純で自然であり、
最大の表現力を目指し、背後にある詩の意味を強化しようと努める。イタリア人が
ふんだんに用いるトリル、コロラトゥーラ、カデンツァを私が用いないのは、この
理由による」
 グルックは1777年、ジュルナール・ド・パリ紙に書いた時も、この論点を
再び強調した。――「(私の音楽作品中の)声、楽器、音はおろか、沈黙でさえも、
ただ一つの目標を持つべきであると私は信じた。すなわち、表現するということであり、
音楽と言葉のつながりが密接となり、台本と音楽がいずれを主従ともせず、完全に
平等一体となることであった」
 『オルフェオとエウリディーチェ』は、グルックの他のいかなるオペラよりも、
こうした理想を守っている。筋書きは明確であり(最低限のアクションさえない、
と批判した者もいた)、詩は単純だが高尚であり、音楽はいっさいの余分なもの、
和声の余分さまで取り除いている。グルックは和声を創造するのはあまり得意でなく、
転調では臆病であった。




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