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ハイドン(4)
グッキー (51)投稿日:2003年04月01日 (火) 03時54分 返信ボタン

 聖シュテファン教会を去ってから数年間、ハイドンは飢餓線上をさまよった。
ピアニスト、バイオリニストとして彼の腕は、プロの水準には達しなかった。
彼自身が認めていたところでは「自分はどの楽器の名人でもないが、すべての
楽器の長所と構造を知っていた。クラビーア奏者や歌手としては悪くない腕前
であり、バイオリンでコンチェルトを演奏することができた」。だが、この程度の
ことをやれる音楽家は沢山いた。8年間、ハイドンは食うや食わずの惨めな生活を
送った。彼はボヘミアン的生活をし、社交界での演奏、教師、編曲などを手がけ、
そして「作曲に熱中するあまり深夜まで作曲に没頭した」。彼はC.P.E.バッハの
音楽を研究し、当時の有名な作曲家であるニコラ・ポルポラ(1686〜1767)から
数回レッスンを受けた。
 徐々に彼は進歩していった。ピアノとバイオリンの演奏技術も多分上達したとみられる。
彼の評判はたしかに高まっていった。1758年に彼は、フェルディナント・マキシミリアン・
フォン・モルツィン伯爵の音楽監督兼作曲家に任命された。2年後、彼は人生最大の誤りを
犯した。マリア・アンナ・アロイジア・アポロニア・ケラーと結婚したのである。
 彼女は美容師の娘であり、ハイドンは実は彼女の姉妹の一人に恋したのであった。
この点、モーツァルトと酷似している。モーツァルトもアロイジア・ウェーバーを
愛しながら、彼女に振られた反動で妹のコンスタンツェと結婚した。妻を探していた
ハイドンは、おそらくケラー家に説き伏せられて結婚したと思われる。マリア・アンナは
ハイドンより3歳年上で、醜く、癇癪持ちで、嫉妬深く、口やかましい女であった。
彼女は音楽を好まず、家庭の切り盛りも家計のやりくりもできず、浪費家であった。
ハイドンがたちまち幻滅して、彼女を「あの地獄のけだもの」と呼び、気晴らしを
ほかに求めたのは無理もない。のちに彼は自分の婚外交渉を正当化しようとして、
最初の伝記作者ゲオルク・アウグスト・グリージンガーに対し「私の妻は子供を産めなかった
ので、私は他の女性の魅力にふつうの人よりも無関心ではいられなかった」と語った。
 ハイドンが彼の人生で最も重要な決断をして、エステルハージ家に副楽長として
仕えることを決めたのは1761年であった。パウル・アントン・エステルハージ候は、
ハンガリー最高の名門かつ最も富裕な一族の家長で、美術、音楽の愛好家であった。
アイゼンシュタットの彼の居城は賓客用の部屋が二百もあり、公園や劇場まであった。
ハイドンは幸運を喜びながら入居した。契約条件は興味深い。大公に仕える音楽家から、
いかなることが期待されていたかを知るうえで参考になる。




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