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名前 |
田中洌
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題名 |
車谷兆吉『赤目四十八瀧心中未遂』 |
内容 |
前々から読むようにすすめられていた車谷兆吉の小説が、偶然、伊勢本洋子さんの書棚にあった。 借りてきて、久しぶりに一日休んで(まるで我が家は、このところ、貧民救済院の様相を呈して日々多忙を極める)読みふけった。 大阪、尼ヶ崎の安アパートで暮らす、得体の知れない住人たちを描いていて、出だしは、ダダイスト新吉の『蝕の字のある、何とか(?)記』を思わせて、興味深い。つまり、うらぶれた底辺の神出鬼没と不埒さだ。 車谷兆吉さんは、たぶん書くために、尼ヶ崎の路地裏に入りこんだ。大卒の会社員崩れで、身を持ち崩して、一本三円で焼き鳥をさしながら暮らしている「私」という設定は、明治・大正期なら、啓蒙小説になったはずだ。 しかし、彼は「書くために」ということは、おくびにも出さない。そこに、ごまかしがある。そのごまかしをどうごまかすか、それが車谷兆吉さんのつらいところだ。必然的に、私小説の伝統のなかへ逃げる。個の観察と意見が縦糸で、ぼくたち底辺のたくましさと得体の知れなさが横糸だ。 つまり、大衆がひそかに待ち望む国民文学の対極に位置する、ありきたりの恋愛小説になってしまった。 「小説をひとつ書くのは、人をひとり殺すくらいのエネルギーがいる」という彼のことばは、書くモチーフのなさをどうごまかすか、というつらさにあるのだ。それは、作られたつらさであって、本当のものではない。彼の、別の小説を求める気になれないのはたぶんそのためだ。
なお、表題作は直木賞を受賞したという。 |
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[249] 2006/09/27/(Wed) 08:29:44 |
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